主の弟子として生き、主の弟子として死ぬ(大斎研修1)

2月18日(日)、食事の後に第1回目の大斎研修が持たれ、「主の弟子として生き、主の弟子として死ぬ」というテーマで話をいたしました。以下はそのお話の概要です。

キリスト教信仰の信仰は生き方そのものであって、なにかの片手間に「やる」ようなものではありません。

「何のために生きるのか」という問いは「何のために死ぬのか」と切り離すことができません。大斎節の始まりを記す「灰の水曜日」の礼拝の中では、次の言葉とともに、一人一人の額に、しゅろを燃やした灰で額に十字架の形を記します。

「あなたはちりであるから、ちりに帰らなければならないことを覚えなさい。罪を離れてキリストに忠誠を尽くしなさい。」

「キリストの弟子とは何者か」という問いに対する答えは、私たち自身が決められるものではありません。弟子を選ぶのは常に師匠です。弟子としてのあるべき姿は師匠が決めるわけです。

クリスチャンの師匠であるイエスさまは、弟子たちにこう要求するのです。

わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。(マタイ16:24-27)

イエスさまは、キリストの弟子、すなわちクリスチャンとは、キリストと共に生きる者であるというだけではなく、キリストにあって、キリストのために死ぬ者であると言っているわけです。

さらにイエスさまは、「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」(ルカ14:26)と言われた後、弟子として歩むためにはとてつもなく高いコストを払わなければならないことを警告しています。

弟子として歩もうとする者に、主は「私」のすべてをささげるよう要求しているのです。

しかしキリストの弟子には、はかりしれない恵みと特権が約束されています。生まれながらの私たちは、使徒たちの語るところによれば、希望もなく、暗闇の中に生き、滅びに定められた者たちです。

しかしイエス・キリストの弟子たちは、「聖なる民に属する者、神の家族」(エフェソ2:19)、「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」、「神の民」(Iペトロ2:9-10)とされます。

人がキリストの弟子となるとき、その人の市民権は、この世の国から「天」に移されます。(フィリピ3:20)アメリカから、日本から、エジプトから、パキスタンから、ドイツから、フランスから、神の国に、市民権が移されること、それがクリスチャンになるということです。

マタイ16:24-27からも明らかなように、血縁は人を「神の家族」のメンバーとすることはできません。さらに、人がキリストの弟子となったなら、その人にとって本当の家族は血縁で結ばれた者たちではなく、イエス・キリストに結ばれた、他のキリストの弟子たち、教会になります。

もし「日本人」がクリスチャンとなったなら、その人はもはや「普通の日本人」として生きることは不可能になります。

その意味するところは、クリスチャンという生き方と、「普通の日本人」の生き方は相容れないということです。クリスチャンが普通の日本人として生きようと思えば、主イエス・キリストを裏切らざるを得ないし、キリストの忠実な弟子として生きようと思えば、「普通の日本人」としての生活をあきらめなければなりません。

その上で、日本に寄留するクリスチャンとして忘れてはならないことがあります。

それは、日本人のクリスチャンは日本人によって殺され、日本の教会は日本によって滅ぼされ、日本に生きたクリスチャンの記憶は、日本人によって抹消されてきたということです。

そして前の戦争の時には再び、日本人クリスチャンは日本人によって迫害されるようになりました。

しかし、キリシタン時代とは明確な違いもありました。それは、教会の指導者たちが、キリストのために苦しみを受ける道ではなく、教会を国家の下請けとし、キリストを天皇のしもべとする道を選んだことです。

クリスチャンが、「本国は天にある」者であることを忘れ、ドイツ人として、アメリカ人として、英国人として、日本人として生きるとき、私たちキリストにあって神の家族とされた者たちを殺すことになります。

国家の数に分裂し、そして国家の僕となった教会が、どれほど教会を破壊してきたかに思い至るクリスチャンはそれほど多くないでしょう。

コンスタンティヌス主義に養われた教会は、過去1700年に渡って、この世の権力と手を組み、この世の権力者の統治を支えてきました。

コンスタンティヌスの時代のローマ教会の指導者は、ローマ帝国と手を組んで、この世に教会の安全地帯を作ろうとしました。そして、コンスタンティヌスが進める戦争を、聖戦として支持し、勝利のために祈りました。

しかし、その代償を払ったのは、ローマ帝国の領外に寄留するクリスチャンたち、例えば、ペルシアのクリスチャンたちでした。ローマの教会指導者が、コンスタンティヌスの軍事行動を両手を上げて支持した結果、ペルシアのクリスチャンたちは、文字通り、皆殺しにされました。

17世紀以降、主流派プロテスタント教会はNation Stateと一体化し、Nation Stateの名において行われる戦争を支持することを、自らの使命としてきました。

今、金曜日の読書会で読んでいる、HauerwasのResident Aliens『寄留者』という本から一箇所引用します。

バルトは、ヒトラーに対して立ち上がるための神学的リソースを教会が持ち合わせていないことに驚愕した。(ヒトラーに対して)「ノー」と言えなかったのは、信仰を近代人に理解される言葉に翻訳し、近代文明を創造するために使えるものにするために、神学者としてのキャリアを用いた、自由主義神学者たちであった。
Barth was horrified that his church lacked the theological resources to stand against Hitler. It was the theological liberals, those who had spent their theological careers translating the faith into terms that could be understood by modern people and used in the creation of modern civilization, who were unable to say no. (Hauerwas and Willimon, Resident Aliens, p. 25)

これは過去の問題ではなく、現在の私たちの問題でもあります。ブッシュ政権、そしてブレア政権によるイラク侵攻が、中東のクリスチャンをどれほどの危機に晒したか、私たちはほとんど聞いたことがないでしょう。

アメリカと英国がイラクに侵攻した2003年当時、イラクには150万人のクリスチャンが存在しました。しかし現在、この数は30万以下にまで激減し、今も縮小を続けています。

アメリカと英国がイラクに侵攻した2003年、当時の小泉首相は、ブッシュ大統領が主導したアメリカのイラク侵攻を支持し、自衛隊を初めて国外に派遣します。これを通して世界、とくにイスラム世界は、アメリカの軍と日本が一体であることを明確に認識するようになりました。

アメリカと英国によるイラク侵攻は、後のISISに代表されるような、イスラム主義を中東世界全体に拡散させる引き金となります。その結果、イラクやシリアをはじめとする、いわゆる「イスラム圏」に、1世紀、あるいは2世紀から存続してきたクリスチャン共同体が次々と破壊されました。

そして、西側諸国によるシリアへの軍事介入は、中東地域でクリスチャンが生き残ることをほとんど不可能にしました。

2015年1月30日、ジャーナリストの後藤健二さんが、シリアでISISによって首を切り落とされて殺害されました。彼はクリスチャンで、シリアで先に人質となっていた湯川遥菜さんを救出するためにシリアに入り、捕らえられ殉教しました。

そのわずか半月後の2015年2月15日には、リビアでISISによって捕らえられた21人のコプト教徒(エジプト人クリスチャン)が、斬首され、殉教しました。

彼らはイスラムに改宗することを約束すれば、生き残ることができました。しかしこの21人は、「主の弟子として死ぬ」ことを選んだのです。死の直前に彼らが残した言葉は「我が主、イエスよ」でした。

主はご自分の弟子に、剣を取るものは剣によって滅びると警告し、敵を愛し、敵のために祈れと命じました。

「この道」を生きる主の弟子は、「敵を殺す」ことを主から禁じられています。教会における殉教者は、「剣を取り、異教徒と戦って命を落とした者」ではないことを思い起こす必要があります。

主の弟子として生きるためのコストを払う準備が、私たちにあるでしょうか。