2018 Maundy Thursday
聖週のこの木曜日の典礼の中で私たちは、主イエスご自身が、礼拝共同体としての教会の中心に「食事」を据えられたことを祝います。
この食事は、ユーカリスト、ミサ、聖餐式、主の食卓、主の晩餐など、様々な名前で呼ばれます。この「食事」の「性格」をめぐっては、様々な理解があり、論争があります。
しかし異なる理解や論争を超えて、確かなこととして言えることは、教会は、イエス・キリストによって呼び集められ、「共に食事をする」共同体であるということです。
教会が「共に食事をする共同体」であるということの本来の意味は、クリスチャンになるということは、「家計を一つにする、経済共同体のメンバーになる」ということでした。使徒言行録2章には次のようにあります。
信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。
ここで注目して欲しいことは、キリストの弟子となり、教会という新しい家族、まったく新しい経済共同体のメンバーになった者たちは、日曜日にだけ集まっていたのではない、ということです。
イエスをキリストと信じる者たちは、日ごとに神殿に行き、そしてそれぞれの家に集まって、喜びと真心をもってパンを割きました。パンを割いたというのは、食事をしたということです。
ユーカリスト、ミサ、あるいは聖餐の制定を祝うこの木曜日は、日本語では単に聖木曜日ですが、英語ではMaundy Thursdayと呼ばれます。Maundyの語源はラテン語のmandatumで、これは英語のmandate、つまり「命令」という意味の言葉です。
Maundy Thursdayという呼称は、ヨハネ福音書13章34節の、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」に由来しています。Maundy Thursday は、イエス様が新しい命令を弟子たちに与えた木曜日なのです。
「愛」という言葉は世に溢れ、あまりにも使い古されて、人々は「愛」という言葉に、「ロマンチックな気分」という以上の意味を殆ど見出せなくなっています。
巷で最も消費される音楽はLove Songで、スピッツによれば「愛はコンビニでも買える」のだそうです。
世に「愛」という言葉が氾濫するのと並行して、教会も、「神は愛です」というキャッチフレーズを、壊れたCDのように繰り返すようになりました。誰もが愛を口にするのだから、「神は愛です」と言えば、それは誰にでも理解され、そして受け入れられると思い込んだのです。
教会が見落としていたことは、聖書が語る愛にはロマンチックなところなどなく、それは現代人がもっとも嫌い、徹底的に避けようとしていることだという点です。
例えば、世間では「愛が冷めた」などと普通に言われます。しかし「愛が冷める」などという表現は、クリスチャンという言語の中には存在しません。なぜなら、愛は感情や気分ではないからです。
「好き」になることと「愛すること」は、まったく別物です。イエス様は、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(Mt 5:44)と命じておられますが、敵を好きになれと命じてはいません。
敵を愛するとは、敵が悔い改めるように祈ることであり、敵が飢えているときに食べさせることであり、渇いていたら飲ませることであり、そして敵を殺さないことです。
「私たち愛し合っているんです」という人たちが結婚して、十中八九不幸な結末を迎えるのは、俗に言う「恋に落ちる」、 ‘fall in love’ を、愛と取り違えているからです。
愛は、キリストの体である教会のうちで、共に生活し、共に食事をし、共に神を賛美し、共にみ言葉を学ぶことを通して形成される、まったく新たな生活習慣であり、行動様式なのであって、気分でも感情でもありません。
つまり、愛することを学ぶプロセスは、ころころ変わる自分の気分や気持ちや感情から解放されるプロセスでもあるのです。
イエス様の「互いに愛しあえ」という命令は、「互いに足を洗う」ことに結びついています。足を洗うことは奴隷の業です。足を洗うことは、奴隷の中でも最もランクの低い者がする仕事であり、誰もしたくない、屈辱的な働きでした。
イエス様の宣教活動の初めから共に歩み、寝食を共にした十二弟子の誰一人、イエス様の足を洗ったことはありません。「足」に触れることは、奴隷にとってすら受け入れがたい業であり、ましてや弟子が師に対して成すことでもありませんでした。
イエス様がペテロの足を洗おうとしたとき、ペテロがパニックを起こしたのは、当然の反応だったのです。
イエス様は弟子たちの足を洗うことによって、神の国で偉大な者とは、皆に僕として仕える者であるとはどういうことなのか、自ら示されました。さらに主は、ユダの足を洗うことを通して、敵を愛することの意味をも示したのです。
教会には、他の者に食事の支度をさせ、あるいは給仕をさせて、自分は食べるだけ、という者のための居場所はありません。パウロは言います。「働きたくない者は、食べてはならない・・・自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。」(2Thes 3:10-12)
この世においては、9人に食事の準備をさせ、給仕をさせ、そして自分が食べるだけのたった一人の人間になることを成功と呼びます。この世の国は、自分のために人を利用するモデルの上に成り立っているのです。
企業は内部留保を積み上げ、経営者たちは利益をTax Havenに迂回させて合法的脱税をはかり、非正規雇用を拡大し続け、働いても生活保護以下の賃金しか得ることのできない新たな貧困層を拡大し続けています。
年金はすでに破綻状態で、国は、年金を払った人に、年金を受け取らずに死んでもらうために、支給開始年齢を後ろへ後ろへとずらしています。
大学を出ても生活できるだけの賃金を得られるような職を探すことはできず、学生ローンの返済ができなくなって自己破産する者はさらに増えるでしょう。
結婚して家庭を築くことは、もはや当たり前のことではなく、経済的に恵まれた、ごく一部の者たちの特権となりつつあります。
この国のインフラは過剰であり、その老朽化は深刻であり、住宅の供給過剰は異常なレベルであり、30年後の日本はゴーストタウンに覆われます。
人を出し抜き、9人を僕として一人だけが成功者として豊かさを享受するモデルは、すでに崩壊しています。30年後の日本は、決して今と同じ日本ではありません。国に希望を置いているなら、その希望は絶望に変わるでしょう。
東日本大震災の直後に、国土交通省の役人をしている友人と話をしたとき、彼はこう言ってのけました。「こんな無責任な組織は転覆させなきゃと思ったけど、すでに転覆させるものなんて残っていなかった。」彼が言った、組織というのは、国のことです。私は彼と同じ認識を共有しています。
私の子どもたちが、今の私の年齢になったとき、彼らの平均年収が、高度経済成長を経験した世代の二分の一、あるいは三分の一になっていても、私は驚きません。確かなことは、彼らが高度経済成長という幻想の中で生きることはできなということです。
しかし私は、彼らの未来について、まったく悲観的ではありません。戦後の教会は、「独立した個人」という神話を受け入れ、更に、この世の成功モデルを受け入れた結果、「共に食事をする」共同体、「家計を一つにする経済共同体」となることはできませんでした。
しかし教会を欺いた、成功モデルは、音を立てて崩れ始めています。自分の周りにいる人間を僕とし、自分を豊かにするような生き方の果てにあるものは、孤独と絶望だけです。
私たちは今再び、家計を一つにして、共に生活し、共に食事をし、「互いに仕える共同体」としての教会を取り戻す機会を与えられているのです。
そして、もし私たちが、「互いに足を洗い合う共同体」となり、喜びと真心をもって神の国の民として生きるなら、私たちは、この世には見いだすことのできない、本当の希望、イエス・キリストの希望を、人々に示すことができるはずです。
私たちの歩みが、そして教会の命が、この夕べの礼拝の上に、互いに足を洗い合うことの上に建て上げられますように。