2018イースター説教

イースターおめでとうございます。

僭越ながら、このイースターの朝、皆さんにお願いがございます。今日はイースターということで、普段の日曜日よりも多くの方が礼拝に集っておられますが、もし皆さんの中に、「今日はイースターだから教会に行こう」と思われた方がおられるなら、ぜひその考えをお捨てください。

誤解のないように申し添えますが、私は「イースターに教会に来るな」と言っているのではありません。むしろ私は、「主の復活の喜びに与るために教会に足を運ぶべき日は、イースターではなく、毎週日曜日だ」ということを、皆さんに知っていただきたいのです。

皆さんの中には、「イースターはイエスさまの復活のお祝いだ」、そう思っておられる方がおられるかもしれません。そして、そのように書いている、ものの本もないわけではありません。しかしイースターの本来の目的は、復活の喜びを祝うことではありませんでした。

最初の3世紀、教会はイースターをユダヤ教の過越の祭り、つまりユダヤの暦の正月にあたる、ニサンの月の第14日に祝っていました。イースターは、まことの過越の小羊イエスが、十字架の上でささげられたことを記念する祭りだったのです。ですから、教会の最も古い伝統においては、イースターはクリスマス同様、固定祝日でした。

使徒たちとその直後の教会にとって重要なのは、季節、あるいは日付であって、曜日ではありませんでした。つまり、使徒たちの時代から3世紀まで、イースターを祝うのは日曜日でなくても、まったく問題なかったわけです。

そのように聞くと、皆さんの中には、「でもイエス様が復活されたのは安息日の翌日、つまり日曜日だったんだから、イースターは日曜日じゃないとおかしいじゃないか」と言う方もあるかもしれません。

しかし残念ながら、そうではありません。なぜなら、繰り返しになりますが、もともとイースターは、「主の復活のお祝い」ではなかったからです。イースターはもともと、過越の小羊キリストの記念なのです。

「じゃあ、復活のお祝いはどこにいってしまうんだ!」とおっしゃるかもしれません。もしそう思われたならしめたもので、そう思った方は、私がしかけた罠にはまった方です。復活の主の祝祭は、本来、毎週日曜日、クリスチャンたちが「主の日」と呼んだ日の集会、礼拝に結びついているのです。

エルサレムの初代ユダヤ人クリスチャンたちが、安息日の土曜日には神殿で礼拝に与っていたときすでに、彼らは主の復活を記念するために、日曜日に集まって共に食事をし、食事の後、あるいは食事の前に、イエス・キリストに祈りと賛美をささげていました。このことが示しているのは、復活の記念は毎週日曜日の集会、「主の日」に結びついていたのであって、一年に一回のイースターではなかったということです。

「主の日」こそが、クリスチャンにとって最も重要な祝日なのであって、この「主の日」の重要さに比べれば、イースターもクリスマスも、二次的なものに過ぎません。クリスマスやイースターが、毎主日の礼拝の重要さを忘れさせ、年に2回しか教会に来ない教会員を生み出す温床になるのなら、いっそのこと無くした方が教会のためになります。

クリスチャンとはイエス・キリストを通して、国籍がこの世の国から、天の国に移された者のことです。新しい国の国民になることは、新しい言語を学び、新しい行動様式を学び、新しい生活習慣を身につけることを必要とします。

クリスチャンは、神の国の国民として、キリストの体である教会の中で共に生活し、共に食事をし、共に神を賛美し、共にみ言葉を学ぶことを通して、クリスチャンという新しい言語、習慣、行動様式を身につけるのです。

それは時間のかかる、忍耐を必要とするプロセスです。週に4時間、あるいは5時間、6年間以上も学校で学んだ英語ですら、ほとんど何の役にも立たないことを思えば、年に2回しか教会と接点のない人が、クリスチャンという言語、習慣、行動様式を身につけことができるはずはありません。

主の復活の喜びに満たされるために、ますます多くの人が、主の日を大切にし、主の日の礼拝に集うようになることを祈り願います。

まことの過越の小羊であるキリストに、栄光とほまれが、代々に限りなくありますように。アーメン