4月22に行われた教師研修会で話した内容です。
なぜ聖書?
1. 聖書を正しく読めるようになるための実践
- 聖書に馴染むこと。
- 聖書を読む習慣をつけること。
- 聖書の全体像をつかむこと。
- 聖書には全部で66の本が入っている(続編を除く)
- 聖書の各書の名前を全部覚えること(歌で)
旧約39巻
新約27巻 - テキストの相互連関 (inter textuality):個々の書物は独立しているけれども、根っこの部分ですべての書物は相互に密接につながっている。新約聖書は旧約聖書の「成就」としてイエス・キリストの福音を語っている。旧約聖書の大きな物語に馴染んでいないと、新約聖書を理解できない。
- 聖書を理解する助けになるかもしれない道具
英語
聖書辞典
聖書地図
まともな入門書(日本語ではほとんど皆無)
2. 聖書テキストの歴史的信頼性
- 聖書はおとぎ話の本ではない「歴史的文書」と呼ばれるものの中で、聖書に匹敵する信頼性を主張できるものはない(知ってた?)
- ヘロドトス『歴史』(紀元前488年-428):「歴史書」というカテゴリーに属する最初の書物とされる。ペルシア戦争について記している文書の写本(コピー)は8。最も古い写本は紀元後の9世紀。著作年代から最古の写本まで、1200年以上のギャップ。
- ツキディデスは『戦史』(c.460-400BC):ペロポネソス戦争について記す。写本数8。最古の写本は紀元後900年頃。原作と最古のコピーとのギャップは1300年以上。
- タキトゥス(ローマの歴史家)による14の著作 (AD 100):写本数20。最古の写本はAD1100年頃。原作と最古の写本のギャップは1000年。
- ローマ皇帝カエサル『ガリア戦記』(AD50年から58年頃):写本数9、最古の写本はAD900年頃。原作と最古のコピーのギャップ850年。
私たちが現在、ヘロドトス、ツキディデス、タキトゥス、そしてカエサルの著作として読んでいるものが、本当に彼らが最初に書いたものと内容が同じかどうか、まったく検証の余地がない。著作年代と最古の写本の年代ギャップが一番小さいカエサルの『ガリア戦記』でさえ、850年も隔たっている。
これを日本史に当てはめると、平清盛が太政大臣になったときに書いた長編日記の一番古い写本は2017年のものだと言うのに等しい。その間を埋める写本も、他の書物での引用も無いが、2017年に書かれたものを取り出し、これが「平清盛が850年前に書いた日記です」と言っているに等しい。
新約聖書は?
- 新約聖書に収録されている27の書物の著作年代は紀元後40年から100年。写本数:ギリシア語写本5,000以上、ラテン語写本約1万、その他言語の写本9,300以上、計24,300以上。最古の写本は AD130年、新約聖書全体を収めた最も古い完全写本は紀元後350年。教父たちの著作には新約聖書から膨大な引用あり。
- 文献学という学問において、聖書学以上の領域は存在しない。私は1900年前と同じ新約聖書を読んでいる。
- 新約聖書に対して向けられるような歴史的懐疑主義が適用されると想定した場合、200年後、ここにいる私たちは、誰一人として歴史に存在しなかったことになるだろう。
3. 教会の書物としての聖書
Q. なぜ聖書は教会にとって絶対的権威なのか?
A. 聖書こそが、教会のBig Storyだから。
Workshop:この世の物語と聖書の物語の対立を見る
- 人間は「物語」を通して人生を理解する。しかし多くの場合、自分の人生が、一体「誰の」、「どのような物語」に支配されているのか気づかない。
- 「この世」は無数の偽りの物語によって回っている。
- 現代世界のBig Storyは近代国家というフィクション。この島の場合、「日本人」という物語。
- 公教育は、「国家」というフィクション(虚構の物語)によって人々を「国民」(フィクションのフィクション)として洗脳するために生まれた。
- 国家の名の下に行われる悪ほど巨大な悪はない。国家によって行われる巨悪は「仕方がない」ものとして受け入れるべきだと考えるのは、「国家」とう虚構の物語が、「私たち」の思考を、そして人生を支配しているから。
- この近代国家というフィクションは、「権利を有する自律した理性的個人」というフィクションの上に立っている。嘘の上に嘘が乗っかっているという構図。
すべての「権利」は「所有権」から派生している。
- 「権利」の出発点は、「私の命と私の体は、私の所有物である」という物語。
- 「私」の「体」は「私」の所有物なのだから、「私」はこれを売ることができる。(現代における会社は奴隷所有者であり、サラリーマンは奴隷。キリスト教が生まれたローマ帝国の中で、市民というのは、自分が生きるために人のために働かなくていい人のこと)
- 「体」が所有物であるなら、性的快楽を提供するためにこれを「売り」、あるいは性的快楽を得るための商品として「体」を買うこともできる。
- 「体」が「個人」の所有物である場合、所有者が自分の体を商品として売ることを妨げる理由はどこにもない。
e.g.) 例えば、ある女性が、3万円で自分の体を、一回の性的交渉のために「売ります」と言った場合、それは「人権論的には」何の問題も無い。
e.g.) もし「胎児」が女性の「所有物」であって、それを「処分」する「権利」(選択の自由)は女性にあると言った場合、胎児の生物学上の父に当たる男性は、たとえこの胎児が生まれてきたとしても、無関係である。
e.g.) もし胎児の生物学上の母だけが、胎児の処分権を持っているとするなら、生物学上の父に当たる男性は、この胎児が生まれてきたとき、父にならない権利を有していることになる(選択の自由)。
e.g.) 子どもが親の所有物であるなら、親が子どもを、性的奴隷として売る行為にも問題はない(インドネシア、タイなどで実際に起きていること)。
e.g.) 体が所有物である以上、自分の体の一部(例えば臓器を)、最も高値をつけてくれるクライエントに売ったとしても、いかなる問題もない。
「社会契約」の前提として、すべての者の、すべての者に対する戦争状態が想定されていることからわかるように、「権利」は常に、闘争関係にある。
- 「子どもにも人権がある」言うことはできるが、子どもの体と命の所有権を、親が持っているのか、子ども自身が持っているのかを決める調停機関はどこにも存在しない。
- 「誰が」権利の主体でありうるかは、物理的、経済的、社会的、経済的な「力」によって恣意的に決まる。
Alberto Giubilini and Francesca Minerva, “After-birth abortion: Why should the baby live?” in Journal of Medical Ethics, (2012):
- GiubiliniとMinervaは、次のような議論を展開する。胎児と新生児の道徳的ステータスは同じである。すなわち、胎児も新生児も、言葉の十全な意味において「人」ではない。GiubiliniとMinervaによれば、胎児も新生児も、「何かに対する権利を有する」と認められるための条件を満たしていない。
- では、「何かに対する権利を有する」と認められるための条件とは何か。それは、「私はこれこれのことがしたい。だから殺されたくない」と言うことができるということである。より抽象的に言えば、「自分の存在が破壊されると、自分の人生から失われてしまうような何かがある」ということを識別できない限り、権利の主体である「人」としては認められない。
- この基準を適用した場合、認知症やアルツハイマーの人、そして脳に障害のある人などは、「人」ではないという結論を容易に引き出せる。
- GiubiliniとMinervaは、新生児の道徳的ステータスは胚、つまり胎児と同じであり、新生児は生存権を持つ「人」ではない故に、「人となる可能性 (potential) の展開を妨げることによって、新生児に損害を加えることはできない」と主張する。
- 改めて、「自分にはこれこれの価値がある。もし殺されたら、その価値が失われる。」そう言える者だけが権利の主体である。新生児の中絶を敢えて数学的に表現すると、0-0=0となる。
- 同じことを私たちの日常的な出来事に置き換えれば、新生児を殺すとう行為は、商品のラッピングをゴミ箱に捨てるという行為となんら違わないということになる。
- GiubiliniとMinervaが語っていることは、教会が生まれた当時のローマ帝国の倫理への回帰。教会が生まれたローマ帝国の中では、性的関係があって妊娠するということは「自然なこと」だけれども、その新しい命を「産んで育てる」ことは「自然なこと」とは見なされなかった。
- ローマ社会の中では、子どもというのはほとんど無価値なものであった。胎児、あるいは生まれたばかりの嬰児を殺すこと、あるいはゴミとして遺棄することは「不道徳」でも「悪」でもなく、あたり前のことであった。
- この点は日本も同じで、江戸時代まで間引きはあたりまえの日本の習慣であり、遺棄された子どもは日本中に溢れていた。「命を大切にする日本文化」などというのは、迷信である。