三位一体主日&信徒奉事者(再)デビュー

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今日は三位一体主日でした。そして一人の姉妹が、信徒奉事者として(再)デビューしました。もうひとつ感謝なことに、韓国からの留学生で、イースターからマーガレット教会に来られるようになった姉妹が、先週からサーバーとして奉仕してくださるようになりました。

以下は今日の礼拝説教です。

4世紀に活躍したヒッポのアウグスティヌスは、西方教会最初の神学者とか、あるいは西方教会で最も偉大な神学者と呼ばれることがあります。全38巻からなる教父全集の8巻を、アウグスティヌスの著作が占めているという事実は、彼の神学的功績がどれほど大きかったかを物語っています。彼は多くの著作を残していますが、その中には三位一体論に関する著作も含まれています。

しかし、神学校で学んだ者たちの中にも、『告白』、『神の国』を超えて、アウグスティヌスの『三位一体論』まで手を伸ばす人はそうそういないと思います。しかし、神学校の三位一体論に関する講義のどこかで、少なくとも一度は聞く逸話があります。それは次のようなものです。

あるときアウグスティヌスは三位一体の神秘について思いめぐらしながら、砂浜を歩いていました。すると彼は一人の少年に出会います。この少年は、自分が掘った穴の中に、せっせと海の水を汲んでは注ぎこんでいます。不思議に思ったアウグスティヌスはその少年に、一体何をしているのかと尋ねます。するとその少年は、「海の水を全部この穴に入れるんだ!」と答えます。それを聞いたアウグスティヌスは、「そんなことは不可能だ。海はお前が掘ったその穴には収まらない。」と言います。するとその少年は、「三位一体は、あなたのちっぽけな頭脳には収まらない」、そう言って消えてしまいます。そのとき初めてアウグスティヌスは、自分が天使に話していたことに気づいた。

直観的に、小さな子どもにもわかるように、人間の理解を超えた三位一体の神の神秘を表す、非常に優れた物語です。

ところが残念ながら、この話はアウグスティヌスの『三位一体論』の中には出てきません。さらに言いますと、アウグスティヌスのどの著作にも出てきません。この話の出所は、15世紀にJacobus de Voragineという人によって編纂された聖人伝、Legenda Aurea、『黄金伝説』という著作です。

ですから、砂浜の小さな穴に大海を押し込めようとする少年の話は、実はアウグスティヌスとは何も関係がありません。しかしこの逸話は、アウグスティヌス自身が語ったものではないにしても、三位一体というのは、神の存在に関するもっとも偉大な神秘であり、神は人間の頭脳によって完全に理解することができるような方ではないという教会の信仰をよく表しています。

キリスト教の正統教義の歴史の中で、三位一体論はキリスト論に結びついて展開しました。言葉を変えれば、三位一体論は正統教義の発展の頂点に位置すると言うことができます。

しかし三位一体の教義は、啓蒙主義以降、自由主義神学によって攻撃され、否定されてきました。自由主義神学者は、原始キリスト教には超自然的な要素は全くなかったという啓蒙主義の前提を共有しています。

これが意味するのは、教会が正統的教義として保持してきたイエス・キリストの神性の否定です。イエスは単なる人間であって神の子でもなければ、ましてや神では無いということであれば、キリスト論と密接に結びついて発展した三位一体論を保持する理由もありません。

しかし教会は、その歴史の初めから、イエス・キリストに祈りをささげ、イエス・キリストを礼拝していました。使徒たちが、イエス・キリストの受肉、十字架の死、復活、昇天を明確に語り、イエス・キリストが救い主であり、罪を赦す権威を持つ方であると宣言していたことは、新約聖書に明確に記されています。

ここで私たちは、キリスト教の教義の発展とは何なのかを理解するための鍵となる、重要な問題に直面しています。使徒たちが宣べ伝えた福音は、彼らの頭脳の産物ではありません。彼らは自分たちが見たこと、聞いたこと、経験したことを「福音」として告げ知らせました。

そして彼らが語った福音は、当時のユダヤ人にとっても、ギリシア人にとっても、すんなりと受け入れられるようなものではありませんでした。福音は最初から、ユダヤ人には躓きであり、ギリシア人には愚かなものと映りました。

しかし使徒たちは、ユダヤ人にもギリシア人にも受け入れやすいように、福音に変更を加えるとか、調整をするなどということは考えませんでした。使徒たちは、人の知恵ではなく、神がイエス・キリストを通してなされたことを、自分たちが見、聞き、経験していることを、忠実に宣べ伝えました。

自由主義神学者たちはしばしば、三位一体という言葉は新約聖書にはなく、それは後の教会による発明である;よって、神は三位一体ではないと主張します。こうして、キリストの神性を否定し、三位一体を否定する自分たちは正しいと言っているわけです。

しかし、もしこの主張が正しいとすると、すべての科学的発見は嘘だということになります。Thomas Youngが実験によって、光が波として振る舞うことを示したのは1807年です。アインシュタインが実験によって、光は粒子としても振る舞うことを示したのは1905年です。WatsonとCrickがDNAの二重螺旋構造を発見したのは1953年です。

もし私が、DNAの二重螺旋構造なるものが初めて提示されたのは1953年だから、WatsonとCrickは間違っていると言ったとするなら、私は自分の無知と愚かさを晒しているだけということになりはしないでしょうか?

物理学者たちは、20世紀に入ってから、単なる気まぐれで、光には波としての性格と粒子としての性格があることにし、単なる気まぐれで、量子論という新しい領域を発明したわけではありません。人間の直観に従えば、波が粒子として振る舞うことはないし、粒子が波として振る舞うこともあり得ません。しかし注意深く実験と観察を重ねた結果、まったく人間の直観に反するにも関わらず、光は粒子としても波としても振る舞うということを、科学者たちは認めざるを得なくなったのです。

その結果として物理学者たちは、光は波でもあって粒子でもあるという、人間の常識には到底受け入れがたい説明を、光に関するもっとも忠実な記述として受け入れるようになりました。

科学者は、与えられた新たな実験データ、あるいは観察データを、もっとも忠実に記述できる言語、あるいはモデルを模索します。つまり、新たな発見には、それを記述する新たな言語、あるいは新たな方程式が伴うわけです。

教会の歴史の中で、父と、子と、聖霊をどう理解するべきか、そして父と子と聖霊の関係はどのようになっているのかについて、様々なモデルが提示され、多くの論争があり、そして多くの候補は、不適切なモデルとして退けられました。

どれが正しく、どれが不適切なモデルかを決定する基準は、使徒たちが語り、新約聖書に記された福音を、もっとも忠実に記述しているものはどれかということでした。この基準のことを教会は使徒性と呼びました。

偽りの教えを退け、使徒たちの福音を保持するために、人間に与えられた言語という限界の中で、教会が根本教義を確定したことはまったく正しいことであり、逸脱でも不当なことでもありません。

神が人間の理解を超えた方であるという事実は、神は明日になるまったく別の正体を現すかもしれないということではありません。5年後にはDNAが三つ編み構造であることが明らかになるなどということが無いのと同じように、一週間後には神は四位一体であることが明らかになるなどということもありません。

神は、私たちのimaginationが生み出すfantasyでもなければ、私たちの願望に従って自由に操作できる対象でもありません。教会が告白する愛なる神は、「その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と使徒たちが語った神です。

イエスがキリストでもなく、神は三位一体でもないなら、少なくともキリスト教的な意味で、神は愛であり得ません。なぜなら、自分以外に対象を持たない自己愛、narcismは、愛のもっとも歪んだ形であって、イエス・キリストを通して示された、愛する者のために命を捨てる愛とは正反対だからです。

教会は、神が三位一体であるが故に、神は愛であると信じてきました。何故なら、イエス・キリストを通して啓示された神は、三位一体であるが故に自らの内に愛の対象を持ち、三位一体の各位格、personaは、互いに自らを与え合う存在だからです。

私たちの内に、主イエス・キリストへの愛が増し加えられ、三つにしてひとつなる愛の神を知る知識において成長することができますように。