第11回ユース聖餐式

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6月10日(日)、第11回目のユース聖餐式を持ちました。今回は残念ながら写真を撮らなかったので、当日の画像がありません。

この日はコリントの信徒への手紙二6章 14節から7章1節、マタイ11章25節から30節を読みました。

この日のメッセージとその後のディスカッションにとって重要な箇所は次のところです。

IIコリント6:14-16

あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。 キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。 神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。

マタイ11:28-30

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

ショートメッセージ

今年の3月2日、目黒区で、船戸結愛(ゆあ)ちゃんという5歳の女の子が、親からの虐待の末に命を落としました。

モデル体型にすると言って、朝食はスープ1杯、昼食は米を茶わん3分の1、夜は茶わん半分程度しか与えていませんでした。

5歳児の平均体重は約20キロですが、結愛(ゆあ)ちゃんが亡くなったとき、体重は12キロまで衰弱していました。

亡くなる数日前、「言うことを聞かなかった」という理由で、結愛(ゆあ)ちゃんは風呂場で水のシャワーをかけられ、拳で顔面を殴られ、そのまま寝たきりになり、そして嘔吐を繰り返すようになります。

しかし両親は虐待の発覚を恐れて、病院へ連れて行くこともせずに結愛(ゆあ)ちゃんを放置し、そのまま死亡させました。

一家は4人家族でしたが、結愛ちゃんだけが電灯もない部屋に一人隔離され、真冬でも暖房で放置されていました。

結愛ちゃんの言動に気に入らないことがあると、父親は、真冬のベランダに、結愛ちゃんをはだしのまま放置しました。結愛ちゃんの足の裏には霜焼けがありました。

今年の1月に東京に引っ越してきた後、結愛ちゃんが外出したのはたったの一度で、実質、軟禁状態に置かれていました。

結愛ちゃんは毎朝、自分で目覚まし時計をセットして午前4時ごろに起き、体重測定をし、薄暗い部屋で一人、平仮名の書き取り練習をするよう命じられていました。

結愛ちゃんが両親にあてて書いたメモの一つには、こう書かれていました。

もうパパとママにいわれなくても しっかりと じぶんから きょうできないことも あすはできるようにするから もうおねがい ゆるして ゆるしてください おねがいします

パパママごめんなさい ほんとうにもう おなじことしません ゆるして

きのうぜんぜんできてなかったこと これまで まいにちやってきたことをなおします

これまでにどれだけあほみたいにあそんだか あそぶってあほみたいだからやめるので もうぜったい ぜったい ぜったい やらないからね ぜったい ぜったい やくそくします

虐待を加えていた父親は、結愛ちゃんの血縁上の父ではありませんでした。母親は2016年に結愛ちゃんを連れて雄大容疑者と結婚しますが、その直後から結愛ちゃんに対する虐待が始まり、結愛ちゃんは2度にわたって児童相談所に保護されています。

2017年の9月には、二人の間に男の子が生まれました。この結愛ちゃんの1歳の弟には、虐待を受けた形跡はありませんでした。

母親は、「自分の立場が危うくなるのを恐れ、夫に従い見て見ぬふりをし」、衰弱した結愛ちゃんを病院へ連れて行くことすらせずに放置しました。

ところで、ローマ帝国の中では、結愛ちゃんの両親の行為は、反道徳的とも、非倫理的とも見なされるることはありませんでした。

ローマ帝国の中では、胎児を殺害すること、生まれてきた嬰児を殺害すること、「不要な子ども」、あるいは「望まれない子ども」を遺棄すること(Exposureと呼ばれました)は、当たり前の行為でした。

しかし教会は、胎児を殺すこと、嬰児を殺すこと、子どもを遺棄することは殺人と同じ罪であるとしました。

教会は遺棄された子どもたちを拾い上げ、彼らをクリスチャンの夫婦に委ね、教会の中で「望まれない子ども」を「神によって与えられた命」として育てました。

さらに、当時のローマ帝国では、小児性愛、同性愛、奴隷との性的関係、婚外関係は非道徳的行為とみなされていませんでした。しかし教会はこれらすべてを罪として退け、結婚した男女にしか性的関係に入ることを許しませんでした。

残念ながら、現代の教会は、結婚の神学的意味をほどんど理解できなくなり、この世の結婚と、教会の結婚とには明確な違いがあることを知りません。

しかし、そう遠くない将来に結婚を考えるであろうユース聖餐式の参加者の一人一人にとっては、まだ遅くはありません。

この世の結婚と教会の結婚はどう違うのか。祝福された結婚のためにどのような準備が必要なのか。聖書と教会の伝統から共に学んでいきたいと思います。