特定5 Gen 3:1-21; 2Co 4:13-18; Mk 3:20-35
皆さんは「グノーシス」という言葉をお聞きになったことがあるでしょうか。これはギリシア語の「知識」を意味する言葉ですが、キリスト教史の文脈では、2世紀以降の教会がもっとも警戒した異端運動を指します。
グノーシス運動の指導者たちは、使徒たちは本当のイエスの教えを教会には隠して、霊的エリートである自分たちにだけ伝えたと主張しました。
グノーシスによれば、救いとは、肉体は魂を縛る牢獄に過ぎないけれども、「本当の自分」は純粋な魂であり、その魂は善なる霊の世界に属しているという認識、グノーシスに至ることです。
しかし凡人は、肉体という牢獄に囚われて、自分の中に純粋な魂、神的火花を持っていることに気づくことができないので、「義の教師」とか「啓示者」と言われる霊的エリートの指導を必要とします。
そしてイエスは、グノーシス運動の指導者と同じように、真の自己認識へと導く「義の教師」の一人であって、救い主ではないとされました。
教会は、使徒たちの教えはすべての教会で明らかに知られており、使徒たちの秘密の教えなどというものは存在しないとして、グノーシスの主張をすべて、偽りの教えとして退けました。
しかし教会がもっとも危険な、偽りの福音とみなしたこのグノーシス運動は、カール・ロジャース(Carl Rogers)が提唱した非指示的心理療法、あるいはクライアント中心カウンセリングという姿を取って復活を遂げます。彼が展開した心理療法の理論は、グノーシス異端の人間論と救済論の完全なる焼き直しです。
例えばロジャースは、「すべての個人は自分自身の内に、個人的に充足し、社会的にも建設的な仕方で、自分の人生を導く能力を有している」と主張します。これはグノーシス運動の指導者たちが神的火花と呼んだものです。
ロジャースによれば、心理療法が目指すのは自己による自己の解放であり、カウンセラーの役割はグノーシス主義における「義の教師」と同じで、クライアントを「真の自己認識」への導くことです。
そしてグノーシス運動の場合と同様に、何が解放かを決めるのは、「私の気分」だけです。
ですから、ロジャースは自己解放にとって最高の権威は、「自分の経験」だと断言します。彼はこう言います。
聖書も預言者も、フロイトも研究調査も、神の啓示も人も、私自身の経験には及ばない。
このロジャース版のグノーシス主義は、20世紀半ば以降、アメリカ社会を席巻する時代精神となり、それはヨーロッパにも影響力を拡大しました。
そして時代精神に追随する自称アカデミックな神学者たちは、使徒たちが語った福音を、ロジャースの心理療法に翻訳し、西洋世界の多くの教会では、使徒たちが宣べ伝えたイエス・キリストが、ロジャース版グノーシス主義における義の教師、カウンセラーに取って代わられました。
他方、今朝の旧約朗読、創世記3章1節から21節は、人は自分で自分の解放者となろうとして滅びをその身に招くことを示しています。
実は、聖書は、悪の「起源」については何も語ってはいません。悪の象徴としての蛇は、神が善きものとして創造された世界に、世界の秩序を破壊し、そして人を神に叛逆させるものとしてすでにそこにあります。
私たちは大抵、「悪」をおぞましいもの、恐怖を引き起こすもの、そして明瞭に識別できるものとして想像します。映画を見たり、あるいは小説を読んでいるとき、私たちは何の苦労もなく、誰が悪役で、誰がヒーローかを区別できます。
しかし聖書は、人が自分自身を善悪の基準としようとするとき、悪を識別できなくなることを教えています。創世記3章4節から6節はこのように言います。
蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
神が罪とするものを、サタンは「いやいや、実はそれは祝福なんだよ」と囁きます。神の言葉に逆らうこと、即ち悪は、「善きもの」として、魅力的なものとして、「知恵」として人の前に現れ、それ故に、人は悪にいざなわれます。
そして悪にいざなわれているそのとき、人は自分が悪に手を染めていることを自覚しません。ほとんどの場合、人は善を成していると信じて悪を為すのです。
悪は「善きもの」、魅力的なものとして現れるが故にこそ、絶大な感染力を持ち、巨大な悪は時代精神となって多くの人々を駆り立てます。
ヒトラーも、スターリンも、毛沢東も、ポルポトも皆、時代精神に突き動かされ、正しいことをしていると信じて巨大な悪を行いました。
世界中でもっとも正統的心理療法として受け入れられたロジャースの人間論と救済論は、聖書が語る人間論と救済論と完全な対立関係にあることに、ぜひ注目してください。
ロジャースが提唱した心理療法によれば、人は自分で自分を解放することができるので、救い主は必要ありません。しかし福音は、人は自分で自分を救うことはできないが故に、神は救い主イエス・キリストを与えたと教えます。
心理療法は「個人」を絶対的倫理基準として立て、自己の経験を絶対的権威とします。それに対して福音は、自分を絶対的権威とすることを罪の根源として示し、自分が自分の人生の主人となろうとすることで、人は滅びに至ることを教えています。
今朝の旧約聖書箇所は、罪を、神の言葉からの逸脱、神の言葉の恣意的操作として描いていますが、ロジャースにとっては、人が神に背き、罪を犯し、闇の中に堕ちる物語は、人間の「自律のプロセス」であり、自己解放の道のりだということになります。
聖書が、世界のあらゆる巨悪の起源として描いている、神への背反は、自分の経験こそが絶対的権威であるとするロジャースにとっては、人が自己解放へと歩み出す、祝福すべき一歩です。
ここまで来れば、どうして多くの教会が、罪という言葉を発することを躊躇するようになり、イエス・キリストは救い主であると告白することを止めたのかが理解できるはずです。
福音が心理療法に取って代わられた結果、神への反逆は自己解放の始まりとなり、こうして罪は消え去ります。イエスは義の教師の一人、すなわち自己解放へとクライアントを導くカウンセラーに過ぎなくなったので、イエスはキリスト、救い主では無くなったわけです。
しかし皮肉なことに、カウンセリング・ブームに乗って自己解放を求める多くの人々が、自分の気分に過度な焦点を置き、無限に開放感を追求する結果、刻一刻と変わる自分の気分の奴隷となりました。
他方、使徒たちが宣べ伝えたイエス・キリストが私たちに与えてくださる解放は、私の気分とはなんの関係もありません。
イエス・キリストが罪人の私たちを救うことがおできになるのは、彼がまことの人であり、罪を許す権威を持ったまことの神であり、まことの救い主だからです。
私の救いは、私が信じる福音の真理にのみ依存しているのであって、私の気分が落ち込んでいようが、最高の高揚感に浸っていようが、関係ありません。
私よりもはるかに優れたクリスチャンであり、福音の真理を深く語ることのできた一人の聖徒がこう言っています。
心の安らぎを求めてそれを得ることはできない。もし、あなたが真理を求めるなら、あなたは結果的に心の安らぎ見出すこともありえよう。もし、あなたが心の安らぎを求めるなら、あなたは心の安らぎを得ることも、真理を得ることもない。束の間、耳あたり良く、自分の願望を満たしてくれそうな考えに飛びつき、結果的に得るものは絶望だ。
この聖徒はオックスフォード大学の教授であり、20世紀の最も優れた福音の守護者であり、ナルニア国物語の著者、C. S. ルイスです。
今朝、私たち一人一人が、真理なるキリスト・イエスの内にまことの心の安らぎを見いだすことができますように。