6月27日(特定7)説教

Gadarene Demoniac

Proper 7: Job 38:1-11,16-18; 2Cor 5:14-21; Mk 4:35-5:20

イエス様は弟子たちと共に小舟に乗ってガリラヤ湖を渡り、向こう岸へ行かれました。イエス様と弟子たちが渡った向こう岸は、ゲラサ人の地でした。

ゲラサ人の地が異邦人の住む所であったことは、そこに豚が飼われていたことからわかります。イスラエルの人々は豚を汚れた動物とみなしていたので、イスラエル人が豚を飼育することはありえませんでした。

汚れた霊に取り憑かれ、墓で生活していた男も、恐らく、異邦人だったのでしょう。

旧約聖書の冒頭に登場するアダムとイヴが全人類の姿を表しているように、新約聖書に登場する、病人、盲人、長血の女、手の萎えた者、そして悪霊に取り憑かれた者は、すべての人間の現実を表しています。

この汚れた霊に取り憑かれた男は、現代人の姿を見事に映し出しています。この男は墓場を住まいとし、鎖で縛られてもそれを引きちぎり、足枷につながれてもそれを砕き、だれも彼を縛っておくことはできませんでした。

「現代人」にとっての鎖や足枷。それは古い倫理観や道徳的規範であり、経済的貧しさであり、病であり、死の恐怖です。

そして「現代世界」において理想とされる人間とは、古い倫理・道徳という鎖を引きちぎり、貧困、病、死という足枷を打ち砕いた、自由で自律した個人です。

「現代人」にとって「自由」が意味するのは、高等教育を受け、高給取りになり、欲しいものをなんでも手に入れ、気が向けば誰とでも性的関係を結び、その結果としてできる子どもは自由に処分し、結婚したとしても、それが自分の利益にならないと思えばいつでも解消でき、高度医療の恩恵によって、自分が死んだことに気づかないように死ぬことです。

現代人の「ニーズ」とは、「自分の欲望」のことであり、「ニーズを満たす」とは、「自分の欲望を満足させる」ことに他なりません。自由と欲望と自己実現は一つに結ばれています。

それ故、自分にとって何が必要で、何が不要かは、「自分の欲望を満たすか、満たさないか」、「自己実現の助けになるか、ならないか」という基準に従って、判断されます。

人との関係すらも、自分の利益になるかならないかで判断されるようになり、自分の利益にならない人間は「自由」を脅かす「しがらみ」となり、その結果、「自由」を追求する人間は、本当の友を持たない、「個人」となります。

「現代」が理想とする「自律した自由な個人」の姿は、誰も寄り付かない墓場で、孤独に暮らす悪霊憑きの男と重なります。

汚れた霊に取り憑かれた者にとって、自分以外の人間は皆、自分を手枷や足かせによって縛り、自由を奪おうとする敵です。この男は生きながらにして墓に繋がれ、すでに死んでいます。

イエス様が豚に乗り移ることを許された汚れた霊は、「レギオン」と名乗りました。レギオンというのは、ローマ軍の6千人の部隊を指す単位です。

この汚れた霊たち、レギオンが男を離れたとき、2千匹の豚が崖を降って湖になだれ込み、溺れ死にました。この地域に住む異邦人にとって、豚は重要な商品です。

商品としての豚の群に汚れた霊が乗り移って滅びる光景は、無限の欲望を駆り立て、人間を金儲けの道具とする営み、すなわち経済と呼ばれる営みが、悪霊によって支配されているという現実と、その破壊力とを私たちに示しています。

聖書は一貫して、この世の富、金を追い求めることを、滅びへの道として警告しています。イエス様は言われます。

「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」Mt 6:24

「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」 Mk 10:25

レギオンは世界経済の主人であり、人間の無限の欲望に寄生する悪の力です。人は、無限の欲望から解放されることなしには、レギオンの支配を逃れることはできず、イエス・キリストによって悪霊の支配から解放されない限り、正気になることはできません。

しかし、イエス・キリストによってレギオンから解放された男を見た人々と、レギオンの破壊的力を目の当たりにした人々は、自分たちのところから出て行ってくれと、イエス様に頼みます。

彼らはレギオンの支配から解放されるよりも、レギオンの支配のもとで、無限の欲望に従って生きることを求めているのです。

今朝の福音書の箇所でイエス様に出て行ってくれと頼んだのは異邦人でしたが、私はこの人々の中に、今日の教会を見ます。

人はイエス・キリストによって解放されない限り、レギオンの支配下にあり、悪の奴隷として生きています。これは新約聖書が語る、神の前における人間の現実です。

教会は、人々をキリストの弟子とすることによって、サタンの支配から神の支配の下に取り戻し、神の国の民とするために存在しています。

しかし今日、多くの教会が、イエス・キリストを語らず、「教会に来てください」と言わず、一人一人の「ニーズ」に応えることが、最高の宣教だと信じるようになりました。

これが本当なら、病人に病気だと言わない医者が最高の医者であり、「どんな薬でもお好きなものをどうぞ」と言う薬剤師が、最高の薬剤師であるということになります。

一人一人のニーズに応えることが、最高の宣教だと信じる教会が何をするか、一つの例を示しましょう。

教会に、中絶を考えているカップルがいるとします。一人一人のニーズに寄り添う教会が目指すのは、無事に中絶手術を終えた後に、このカップルの罪悪感を消し去ることです。

牧師はクライアントであるカップルに、こう囁きます。「もし望まれない子が生まれて来たら、その子は親からも、周囲の人間からも愛されず、より大きな、「堪え難い苦しみ」を味わったかもしれない。だから、あなたたちはむしろ、お腹の中の子どもを、苦しみから守ってあげたことになる。」こうして中絶は「哀れみの行為」となります。

では、使徒たちと使徒教父時代の教会は何を語り、何をしたのでしょうか?彼らは一人一人のニーズなど眼中にありませんでした。むしろ教会は、人間が「ニーズ」を追求して滅びることを知っていました。

使徒たちと使徒教父時代のローマ帝国では、中絶も、望まない子どもや障害のある子どもを遺棄することも、倫理的に何の問題もない、当たり前の行為と見なされていました。

捨てられた子どもたちのほとんどは野獣の餌食となり、稀に、奴隷として拾われることがありました。

望んだ性的関係の結果として与えられた命を、「望まれない子ども」として処分することが、人間の「ニーズ」であるという現実は、いつの世も変わることはありません。しかし教会は、そのようなニーズを満たす行為は、殺人と同じ罪であり、地獄への道であるとして退けました。

教会は、罪を罪として告発する一方、遺棄された子どもたちを拾い集め、クリスチャンの夫婦に彼らを託し、キリストの弟子として神の民に加えられることを祈りながら、教会の子どもとして育てました。

犠牲を払わなくてもよいキリスト教、変わることを要求しないキリスト教、私のニーズを満たしてくれるキリスト教、すなわち、イエスをキリストとして宣べ伝えないキリスト教は、ご都合主義的で便利でしょう。

しかしそのようなキリスト教は、罪の赦しの可能性そのものを閉じてしまいます。

イエス・キリストが十字架の上で人の罪のために献げた犠牲は、心から罪を悔い改める者を、罪の裁きから救うことができます。殺人を犯した者でさえ、罪を悔い改めるなら赦されます。

しかし罪が罪であることに代わりはありません。神が罪とするものを、人が罪でないとすることによって、人は赦しの可能性を失い、そして救いの道を閉じます。

キリスト・イエスによって解放され、変えられ、復活の命を歩み始めた者は、自分で自分の人生を切り開くことができるという幻想から覚めて、それが悪魔の囁きであることに気づいた者です。

イエス様によって解放され、正気を取り戻した男が共に旅をしたいと願った時、主はその願いを退け、むしろ自分の家族に、身内に、イエス様がしてくださったことを、ことごとく知らせるようにと命じました。

そしてこの男は、イエス様を追い出した人々の間で、自分の人生が、どのようにしてイエス・キリストによって変えられたのかを大胆に証しました。

イエス・キリストによって解放され、人生を変えられ、その救いのみ業を大胆に証する者が起こされることを、切に祈り求めます。