特定9説教

Proper9-Who-Is-This

8 July 2018 Pentecost 7 Proper 9: Eze 2:1-7; 2Cor 12:2-10; Mk 6:1-6

「お里が知れる」という表現があります。通常、否定的な意味に使われます。この表現の背後には、家庭や親、親や親戚の経済力や社会的ステータス、受けた教育が、一人一人の「今の姿」を表しているという直観、あるいは認識があります。

教育の実体が受験産業によって支配されている日本の場合、親の経済格差は子どもの学力格差、教育格差と密接に結びついています。そのために、ある人の学歴から、かなり正確に、その人の両親の経済力まで推測できるわけです。

こうして私たちは、ある人の現在の姿から、その人の素性を推測し、子どもが置かれている現在から、その子どもの未来をイメージします。

例えば、一人の男の子の例を想像してみてください。この男の子は、子育てを放棄し、子どもの教育に全く関心がないシングル・マザーのもとで育ちます。

彼の母親は、運動会にも、授業参観にも、先生との面談にも、一度たりとも顔を見せません。

宿題を家でやっていかなくてはならないことも知らず、視力が悪くて黒板の字も読めず、学校の勉強の何が分かって、何が分からないのかもわかりません。

この男の子は中学1年の1学期から不登校となり、3年間の中学校生活の半分以上学校を欠席し、成績は体育以外すべて1です。

皆さんは、この男の子の未来について、彼が30歳、40歳、50歳になったとき、どうなっていると想像するでしょうか?

恐らく、私たちがこの男の子について、直観的に思い描くイメージは、そんなに大きく違わないと思います。まともな親にも家庭にも恵まれず、学校でも見捨てられ、中学校からドロップアウトした人間と、この世的に成功した人生や幸せな人生を結びつける人は一人としてないでしょう。

実際、私たちが人について抱く様々なイメージは、この世の営みの中では比較的うまく働きます。特に、人間を血液型で4種類に分類できると信じている日本のような極めて画一性の高い社会では、私たちの推測・憶測に基づく判断は、度を超えて幅を利かせるようになります。

私たちの推測と憶測が生み出すイメージは、社会の中でうまく立ち回るためには大いに役に立ちます。しかし、こと救いに関わること、神様のことに関しては、むしろ重大な妨げになります。

今朝の福音書は、イエス様の「お里」を知っている人々が、イエス様に躓いたことが記されています。

イエス様と同郷の人々はこうつぶやきます。「こいつは建築作業員ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟だ。そして彼の姉妹たちは、ここに私たちと一緒にいるじゃないか。」

誰もナザレから偉大な預言者が現れることなど期待せず、ましてや、旧約聖書に一度も登場しない小さな村から、救い主が出るなど想像だにしません。

イエス様の同郷者たちは、しがないナザレの村について自分たちが抱くイメージと、イエス様が語る言葉の権威と、驚くべき奇跡の業とが結びつかないことに、困惑します。

人々はイエス様の言葉と業とに驚きますが、自分たちの思い描くイメージが重荷となり、彼の言葉を理解できず、その業を通して表される神の力を見ることもできず、イエス様を退けます。

彼らは、一人の理想主義者を退けたのではありません。John Lennonの理想に共鳴するか、まったくのナンセンスとして退けるかというようなレベルの話ではありません。

ナザレのイエスを退けるということが意味するのは、イスラエルを救うことのできるたった一人の方を、彼らが拒否したということです。

イエス様は、同郷者の不信仰に驚かれます。福音書全体の中で、イエス様が「驚いた」と記されている場面は二つしかありません。一つは異邦人である百人隊長が、イエス様に対する絶対的信頼を表す場面であり、もう一つが今日の場面です。

今朝の福音書の箇所は、イエス・キリストという方が、私たちの「常識」に従って導き出されるイメージに、決して収まらないことを示しています。

私の中には、長い間持ち続けてきた、ある違和感があります。それは、日本人クリスチャンが、イエス様のことを「イエス」と呼ぶことです。

例えば、教会の中で、教会とまったく無関係な、皇室について話されているときでさえ、美智子(みちこ)さま、雅子(まさこ)さま、紀子(きこ)さまといった具合に、いちいち「さま」がつきます。

「美智子が」とか、「雅子が」と言っているのを、未だ耳にしたことがありません。では、皇室の「美智子」には「さま」をつけ、「雅子」にも「さま」をつける日本人クリスチャンが、「イエスは」と言うのは、一体どういうことなんでしょうか?

そしてその同じ口が、釈迦には「お」と「さま」をつけて「お釈迦さま」と言うとき、その人の中で、ナザレのイエスは、一体、どんなイメージと結びついているのでしょうか?

美智子さま、雅子さま、お釈迦様という日本人が、教会の中で、イエス様のことを「イエス」と呼ぶとき、この「イエス」は人間の心のニーズを満たすカウンセラーとして、「イエス」が創設した教会は、人間の物質的ニーズに仕えるチャリティー団体として、「普通の日本人」が許容できる、「よい宗教」のイメージに、完全に吸収されているのではないでしょうか?

毎週金曜日の読書会で読んでいる本の著者、ハワーワス (Hauerwas) は、マタイ福音書の注解書も書いています。彼はその中でこのように言っています。

「ただ私たちを愛し、家族愛を育み、自分より不幸な者に援助の手を差し伸べる以外に、何もすることのないイエスほど破壊的なものはない。」

心のニーズを満たすカウンセラー・イエスと、物質的ニーズに応えるチャリティー団体としての教会は、人を救うのではなく、むしろ人を滅ぼします。

なぜなら、人はキリストであるイエスに出会わない限り、まことのニーズがどこにあるか知らず、まことのニーズを知らない人間は、自分のニーズを追い求めて、そのニーズの中で滅びるからです。

福音は、子育てを放棄したシングル・マザーのもとで育ち、中学校からドロップアウトし、この世的に言えば、絶望の中にある、あの男の子のような者にとって、唯一の、そしてまことの希望なのです。

イエス・キリストだけが、絶望の中にある者を立ち上がらせることができます。この世に希望を持たない者の人生に、進むべき方向を示すことができるのは、まことのニーズを教え、そしてそのニーズを満たすことのできる、イエス・キリストだけです。

ちなみに、この、子育てを放棄したシングル・マザーのもとで育ち、中学1年でドロップアウトし、絶望の中にあった男の子というのは、私のことです。

イエスはキリストであるが故に、私のような、とうの昔に死しんでいたはずの者にさえ、まことの希望を与え、進むべき道を示すことができるのです。

皆さん。どうか聖書に親しんでください。福音書が描くイエス・キリストに驚いてください。使徒たちが語る福音に驚嘆してください。そこに現れるイエス・キリストは、私たちのイメージに、決して収まりません。

イエス・キリストは、まず、つまずきの岩として現れます。しかし、このつまずきの岩こそが、死すべき者をも生かす、まことの命、まことの光、まことの希望なのです。

願わくは、御霊が私たちの上に注がれ、イエス・キリストの言葉を聞く耳を与え、キリストが成就された救いのみ業を見る目を与えてくださいますように。