第13回ユース聖餐式

今日、13回目のユース聖餐式が行われました。本日の聖書朗読は、エゼキエル書2:1-7とマタイ5:10-12でした。

そして今日のお題は、「なぜ預言者は嫌われるのか?」でした。

少し想像力を働かせていただきます。もし皆さんが知らない街に旅行して、友人とどこかで食事をしようかとガイドブックを広げて相談しているとします。

それを見かけた地元の人が、「あの店には絶対に行っちゃいけません。あそこは観光客をカモにして、法外な料金を請求するんです」と教えてくれたとします。

そうしたら皆さんは、「大きなお世話だ。どこに行こうが自由だろう!」と、警告してくれた地元の人に対して腹を立てるでしょうか?

預言者は、「その道を進んだらひどい目に遭いますよ。方向転換しなさい」と語りかけます。

預言者は、今の道を進む先にある危機について、あらかじめ警告してくれるのです。ところが、イスラエルの民は、迫り来る危機を知らせてくれる預言者の声に耳を傾けません。

むしろ、預言者を忌み嫌い、彼らを殺してしまいます。しかし、預言者が語る破滅は、確実に民を襲います。

イエス様もイスラエルの民に、世に、「立ち返れ」と呼びかけます。しかし、イエス様の言葉を聞いた人々は、イエス様を十字架で殺してしまいます。

なぜでしょうか?なぜ預言者は、迫り来る破滅を知らせてくれる人なのに、皆に嫌われるのでしょうか?

活発な議論の中からごく一部をご紹介します。

  • 親が子どものことを思って、子どものために、「それはやめた方がいい」とか、「こうした方がいい」と言ってくれても、それを聞けないのと同じように、「自分の思う通りにしたい」というのが勝ってしまうのではないか。
  • 預言者は預言者として生まれるんじゃなくて、あるとき神様から「語れ」と言われて預言者になる。周りの人はそれまでのその人の姿を知っているから、「こんな奴が預言者?」という風に疑って、預言者のことを信じないのではないか。
  • 自分が「正しい」と思っていることとか、自分が「これまでしてきたこと」を否定されたくない。
  • しかも「長いものには巻かれろ」とか、事なかれ主義とか、「みんながやっているんだから」というふうに、多くの人が自己保身のために周りに合わせた方がいいと思っているから、預言者の言うことが正しいと信じる人がいたとしても、その人たちは少数で、力が無いから、抹殺されてしまう。
  • 少数の正しい主張が無視されるということは、今だってあるんじゃないか。例えば原発が「必要だ」という「多数派」に、原発の危険性と不要性を訴える「少数派」の声が無視されるように。

ディスカッション後の牧師のコメント

預言者は「主はこう言われる」と言って、自分の言いたいこと、自分の好きなこと、嫌いなことではなく、神の言葉を語る人でした。

ヨハネの福音書にあるように、イエス・キリストは神の言葉「そのもの」です。クリスチャンというのは、神の言葉そのものであるイエス・キリストを信じ、受け入れた者は皆、このまことの神の言葉を携え、それを伝える「預言者」になります。

クリスチャンにとって、預言者にならないという選択肢はありません。そして預言者は皆、迫害を受けました。

新約聖書の中に、次のようなみ言葉があります。

かつて、民の中に偽預言者がいました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れるにちがいありません。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否しました。自分の身に速やかな滅びを招いており。。。2ペトロ 2:1

イエス様はこう言っておられます。

わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。マタイ5:11-12

もし私たちが、神の言葉イエス・キリストに忠実に生き、そしてこの言葉をを忠実に宣べ伝えようとするなら、迫害は避けることができません。キリストの弟子は、いつの時代においても、オオカミの群れの中に羊を送り込むようなものなのです。

しかし、「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。」 2テモテ 4:2-4

私たちが、「自分の言って欲しいことを言ってくれる人」を求めているとき、私たちはすでに、道を踏み外しているとみ言葉は警告しています。

イエス様と仲良くなり、イエス様の言葉に聞き従うことを学ぶか、自分の言って欲しいことを言ってくれる「偽教師」、「偽預言者」に惑わされるかが、大きな分かれ道です。