特定11 説教

Proper 11 (Year B): Is 57:14-b-21; Ephesians 2:11-22; Mark 6:30-44

先週の日曜日に読まれた福音書、マルコ6章7節から12節の中で、イエス様は弟子たちを二人ずつ組にして宣教旅行に送り出しました。弟子たちは、イエス様によって神の国が到来したことを告げ、人々に悔い改めを迫り、悪霊を癒し、病人を癒しました。

弟子たちが宣教旅行に出ている間には、イエス様のいとこにあたるバプテスマのヨハネが、首を切られて殺されるという悲劇的出来事が起こります。このバプテスマのヨハネの死は、イエス様ご自身の宣教活動の最後に、何が待ち受けているかを示しています。

イエスの名を携えて悔い改めの福音を説いた弟子たちの宣教旅行は大成功を収め、イエス様の評判はうなぎ登りに高まりました。

宣教旅行からクタクタになって戻って来た弟子たちは、イエス様に宣教活動の成功を報告します。イエス様は疲れ切って食事をする暇もなかった弟子たちを休ませるために、舟に乗って、湖の反対側の人気のない所へ行くことにしました。

しかしイエス様と弟子たちが悪霊を追い出し、病を癒すのを見た人々、さらにその噂を聞きつけた人々は、イエス様と弟子たちが舟に乗って出て行くのを見ると、陸路を歩いて湖の反対側に先回りしました。イエス様と弟子たちが到着すると、そこには1万人規模の群衆が待ち構えていました。

さて、5千人の給食の出来事はあまりにも有名なので、その話をよく知っているような気がしてしまいます。そして、この話を「よく知っている」と思っている多くの人は、イエス様は群衆が貧しく飢えているがために、彼らを憐れみ、養ってくださったと思い込んでいます。

ところが、イエス様は、群衆が貧しく、空腹で、その日の糧にさえも事欠いているが故に、彼らを憐れまれたのではありません。イエス様は、群衆が、羊飼いのいない羊のようであるが故に憐れまれたのです。

羊飼いがいない羊は、危険から身を守ることができず、野獣の餌食となって食い殺されてしまう存在です。また、羊飼いのもとを離れてさまよい歩く羊は、神に背を向けて滅びの道を歩む人間の姿を現しています。

イエス様は、滅びの道を歩んでいる群衆を憐れまれたのです。

群衆を憐れまれてイエス様がしたことは、私たちが思い描く「チャリティー」の姿とはまったく結びつきません。群衆を憐れむイエス様は、群衆に教えました。宣教したのです。

この箇所には直接、イエス様が何を語ったかは出てきません。しかし福音書は常に、イエス様が神の国の福音を語ったことを証ししているのですから、ここでもイエス様が、神の国の福音を語ったことは疑いようがありません。

しかもイエス様は、悔い改めと、神の国について、ほんの10数分説教をしたのではありません。あまりにも長々と話したがために、人々が夕食を食べなければいけない時間に突入してしまったのです。

そのために弟子たちはそわそわし始め、こらえ切れなくなって、イエス様に、群衆をもう解散させて、自分たちで食料を調達させてくださいと切り出しました。

するとイエス様から、驚くべき答えが返って来ます。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と。

弟子たちは間違いなく、自分たちに必要な食料を調達するためのお金は持ち合わせていました。イスカリオテのユダは会計士、お金の管理者でした。

しかし彼らの手元にあるお金が、1万人からの群衆を養うには到底足りないことは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」という弟子たちの言葉から明らかです。(Mk 6:37)

「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われるとき、主は弟子たちの信仰を試しておられます。

弟子たちは、イエス様の命令によって、神の国が到来したことを告げ知らせ、悔い改めを迫り、イエスの御名によって悪霊を追い出し、病を癒しました。弟子たちが為す業はすべて、弟子たちを通して、イエス様が為さる業です。悪霊を追い出し、病を癒す力は、弟子たち自身のものではなく、イエス様の力です。

私たちは、イエス様の業を行う道具、器に過ぎません。パウロは言います。「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」(ローマ14:8)

しかし私たちはしばしば、私たちは主が命じられることを、主の名によって、主のために為すのだということを忘れます。

時には、イエス様が命じてもいないことを行ったり、最悪の場合には、単に自分の願望を実現するために、イエスの名を利用することすらあります。

動揺する弟子たちに追い打ちをかけるかのように、イエス様は「パンは幾つあるのか。見て来なさい」と命じます。弟子たちが探し出すことのできた食べ物は、たった5つのパンと2匹の魚でした。

「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われたとき、弟子たちは、主の命令を、自分の力で実現しようとしていました。しかし、イエス様が弟子たちに「せよ」と命じることは、常に、「私たちの能力」も、「私たちの予算」も超えています。

私たちの目には、5つのパンと2匹の魚は、1万人からの群衆を養うためには何の役にも立たないように見えます。

しかし5つのパンと2匹の魚が、イエス様の手に委ねられ、祝福され、イエス様の手から弟子たちに与えられたとき、それは5千人の男と、女と子どもとが満腹するまで食べても、12のカゴが一杯になるほどの、豊かな糧となりました。

イエス・キリストが「命じられた」ことをするために、私たちは十分な予算も、物も、あるいは能力も無いと感じるかもしれません。

しかし私たちの主は、この宇宙の創造者にして、決して尽きることのない命のパンです。イエス・キリストが、「これをせよ」と命じられたことをするために、私たちに今与えられているものを献げるなら、主ご自身が、その命令を遂行するための必要を満たしてくださいます。

教会には、どのようなNPOも、どのような人道支援団体にもなし得ない、神からの使命が託されています。それは救い主、イエス・キリストを宣べ伝え、人々を滅びの道から命の道へ招き、神の国の民とすることです。

主は言われます。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」 (Mt 6:33)

5千人の給食の奇跡は、教会が、イエス・キリストの御名を宣べ伝え、神の国の民として生きるためにすべてを献げるなら、教会の主は、私たちの肉の必要をも満たしてくださるという保証です。

神の国と神の義を求めるとき、主はこの世において生きて行くために必要なものも与えてくださる。この信仰が、私たちに与えられますように。