特定12 説教

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29 July 2018 Proper 12: 2Ki 2:1-15; Eph 4:1-7, 11-16; Mk 6:45-52

私の中には長い間、船旅への憧れがありました。船で旅をすることへの強烈な憧れを初めて抱いたのは、堀江謙一さんの『太平洋ひとりぼっち』を読んだときでした。

これは、1962年、23歳の堀江謙一さんが、全長19フィート、わずか5.7メートルの小さなヨットで、94日をかけて、パスポート無し、ヴィザ無し、お金無しで太平洋を横断し、ついにサンフランシスコに「密航」するまでの間に記した航海日記がもとになって書かれた本です。

この本を読んだ後、自分もヨットで世界を旅してみたいという夢が膨らみ、書店に走って、『KAZI 舵』というヨットやクルーザー関係の雑誌を購入しました。

キャビンが付いていて寝泊まりができる、クルーザーと呼ばれるタイプのヨットがいくらくらいするのか調べるためです。ページをめくり始めて間もなく、自分の人生にヨットを購入できる日は絶対にこないことがわかり、ヨットによる世界旅行の夢を諦めました。

それでも、いつか船で世界をめぐりたいという憧れは、しばらく消えませんでした。

20代前半のある日、それはまだ私と伴侶が結婚する前のことで、私たちは横浜でデートをして、山下公園から横浜駅東口までSeaBusで帰ることにしました。

ところが船に乗り込んで出発する前から、彼女の顔色が見る見る青くなり、わずか15分の船旅を終えて横浜に着いた時には、船酔いで歩くのもままならないほど、グッタリしてしまいました。

このとき私は、自分の人生には、船で世界を巡る日も来ないことを悟りました。

今朝の福音書の箇所の冒頭には、イエス様が「弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた」と記されています。

この短い1節には、ただならぬ不穏な空気と緊迫感が満ちています。

今朝の福音書朗読の最後の節、マルコ6章52節は、「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである」と結ばれています。これは読者に対する警告です。マルコは、「5千人の給食」の出来事と、その後に続く、イエス様が湖の上を歩き、風を静められた出来事は繋がっており、「5千人の給食」の物語を理解できなければ、今日の箇所の出来事が理解きないと警告しているのです。

新約聖書の中にはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと4つの福音書があります。この4つの福音書を繰り返し読んでいますと、4つすべての福音書に記されている出来事というのが、それほど多くないということに気づきます。

マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの全ての福音書が言及している出来事は、私が数えたところでは10あります。その内の7つは、イエス様のエルサレム入場から復活の朝に集中しています。

この事実は、全ての福音書が、十字架につけられ、死んで葬られ、そして復活したナザレのイエスを、キリストとして証するために書かれたことを示しています。

イエス様は、ご自分の到来によって神の国が始まったことの証拠として、様々な奇跡の業を行いました。しかし、4つの福音書すべてが言及している奇跡の業は、「5千人の給食」だけです。それ故、この出来事は、イエス様が行った驚くべき御業の頂点と呼び得るものです。

そして、「5千人の給食」の出来事だけが、全ての福音書に記録されたのには、それなりの理由があります。

第1に、「5千人の給食」の出来事は、イエス様が行った様々な奇跡の業の中で、最も驚くべきものでした。

第2に、イエス様が行ったこの驚くべき御業は、その場に居合わせた群衆の熱狂を呼び起こしました。

そして、この群衆の熱狂こそ、イエス様が弟子たちを強制的に舟に乗り込ませ、そして自ら群衆を解散させねばならない理由でした。

ローマ皇帝は自分の軍隊が殺した敵の数を誇り、ローマの群衆は、殺された敵の数が多ければ多いほど熱狂しました。皇帝は戦争に勝利すると、自分が討ち倒した政敵の首を切り落とし、それを槍の先に突き刺して掲げ、軍馬にまたがって凱旋します。

この凱旋こそが、ギリシア語で εὐαγγέλιον (よき知らせ)と呼ばれるものです。εὐαγγέλιον 、よき知らせ、福音は、徹頭徹尾、政治的であって、非政治的福音などというものはありません。

「5千人の給食」が引き起こしたガリラヤの群衆の熱狂は、政治的熱狂であり、彼らは5つのパンと2匹の魚で、1万人からの群衆を満腹させた驚くべき預言者を、自分たちの王にしようとしました。

彼らは、イエス様が、εὐαγγέλιον をもたらしてくれると信じ、期待したのです。彼らがイエス様に期待した εὐαγγέλιον 、よき知らせとは何でしょうか?

それは、イエス様がダビデのような王として、強力な軍隊を組織し、イスラエルに駐留するローマの軍隊を皆殺しにすることです;

このイスラエルの王が、軍馬にまたがり、ローマ皇帝の首を槍に掲げてエルサレムに凱旋することです;

そして、ローマ帝国をその足元に従わせるほどの強力な帝国として、イスラエルを繁栄させることです。

これこそが、ガリラヤの群衆が熱狂し、期待した εὐαγγέλιονであり、彼らの希望でした。

この世の政治の εὐαγγέλιον は、大量殺戮と流血がもたらす民衆の熱狂と常に一つです。しかしイエス・キリストは、この世が求め、この世が熱狂するよい知らせ、εὐαγγέλιον を与える王ではありません。

だからこそ、イエス様は、ご自分の弟子たちが、群衆に取り込まれ、彼らの一味になることを食い止めなくてはなりませんでした。

イエス様はこの世の君たちと対決し、この世の神によって抹殺されます。イエス・キリストの十字架の福音は、この世が追い求めるよき知らせ、εὐαγγέλιον が失望に終わったその向こう側で、復活の主と共に現れます。

イエス様は、その時のために、弟子たちを整えておかなくてはなりませんでした。弟子としての訓練を受けること無しには、誰も十字架の福音を理解できるようになりません。

イエス・キリストは、十字架の福音をよき知らせ、喜びの知らせとして理解し、これを宣べ伝えさせるために、弟子たちをこの世から取り分け、訓練されるのです。

群衆の熱狂に乗じて、12人の弟子たちが再びこの世の者となってしまわないために、イエス様は弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、ご自分は、王になってくれという群衆の願いを拒否して、彼らを解散させられました。

主は弟子たちを強制的に舟に乗り込ませながら、彼らにベトサイダへ向かうように命じます。しかし弟子たちは逆風のため、目的地へ向けて船を漕ぐことができません。

それを見た主は、湖の上を歩いて、弟子たちの舟のところまで行かれます。もちろん、弟子たちは、人が湖の上を歩けないことを知っています。

彼らは何者かが、湖の上を歩いて近づいて来るのを見て、それを幽霊だと思い、恐怖の叫びを上げます。彼らが恐れたのは向かい風ではありません。湖の上を歩いてきた、イエス様です。

旧約聖書の中で、海の上を歩き(Job 9:4-11)、モーセを通り過ぎられる方(Ex 33:17-23)は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神です。

神の臨在を前にした人間の当然の反応は恐怖です。イエス様は恐怖に怯える弟子たちに、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言って、船に乗り込まれます。すると直ちに風は静まります。

イエス様が舟に乗られて風が収まったのを見た弟子たちの様子を、ギリシア語の本文は、「彼ら自身の間で、まったく不必要に驚嘆した」と表しています (λίαν ἐκ περισσοῦ ⸃ ἐν ἑαυτοῖς ἐξίσταντο: LSJの定義14)。

つまり、驚く必要もないのに驚いたと言うのです。そして、彼らが驚く必要もないのに驚いたのは、「彼らはパンについて(つまり5千人の給食の奇跡を)理解しなかった。彼らの心が頑なだったからである」と説明されています。

モーセに導かれ、奴隷の国エジプトを出て約束の地へ向かうイスラエルの民を、神は天からのパン、マンナをもって養いました。

5つのパンと2匹の魚で5千人の男を養ったイエス・キリストは、天から降ってきたまことのパンであり、永遠の命を与えるまことの神です。しかし弟子たちはまだ、そのことを理解してはいませんでした。

イエス・キリストのεὐαγγέλιον、福音を、彼らが理解し、イエス・キリストが世界の創造者であり、救い主であり、天からのまことの命のパンであることを知るのは、主の十字架と復活の後のことです。

しかし私たちはすでに、キリストの十字架、復活、昇天の後の時代を、主が再び来られる日を待ち望みながら生きています。

この世の荒海で生きる私たちは、逆風に晒され続けます。主の命令に忠実に生きながら、逆風を避ける道はありません。

しかし、大きな逆風の中にあっても、私たちは喜びをもって、平安の内に歩むことができます。なぜなら、私たちの主は、世界を創造し、治める方であり、荒ぶる湖を静めることのできる方だからです。

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」