5 Aug 2018
出エジプト16:2-4, 9-15; エフェソ4:17-25; ヨハネ6:24-35
私が最初に神学を学んだのは、北海道の札幌にある小さな神学校でした。あるとき、神学校の授業の一環として、青十字サマリヤ館という施設を訪ねたことがありました。青十字というのは、アルコールや薬物中毒患者者の社会復帰を支援するために、1886年にスイスのジュネーブで発足した組織です。
札幌市南区にあるサマリヤ館では、アルコール・薬物・ギャンブル中毒の人たちが、社会復帰を目指して共同生活をしています。私たちがサマリヤ館を訪ねたときには、7、8人のアルコール中毒の人たちが生活していました。そして、彼らから直接、どうしてサマリヤ館に来ることになったのか;サマリヤ館で更生プログラムを始めるまでに、どんなことがあったのか、話を聞きました。
もちろん、そこに至るまでの話は、一人一人違います。ところが、その一方で、私たちが直接話を聞いた入所者の人たちばかりではなく、サマリヤ館の更生プログラムに参加する、ほとんど全ての人たちに共通する点があることに、私たちは驚かされました。
一つは、彼らは皆、すべてを失ってからそこに来るという点です。彼らは、仕事を失い、家族を失い、友人を失った後に、サマリヤ館にやって来ます。裏を返せば、全てを失うまで、彼らは更生プログラムに乗ろうとしないということです。
そしてもう一つの共通点は、彼らは皆、全てを失うまで、誰一人、自分がアルコール中毒だと思っていなかった、という点です。多少、飲みすぎることはあるかもしれないけれども、アルコールによって全てを失うなんてことが、自分の身に起きるとは思ってもみなかった。彼らは口を揃えて、そう言うのです。
今朝の福音の中で、イエス様を探し当て、「しるし」を求めている群衆は、イエス様が「羊飼いのいない羊のよう」だと言って憐れみ、5つのパンと二匹の魚で養った、あの群衆です。
5つのパンと2匹の魚によって満腹するまで食べさせてもらった群衆は、舟に乗って湖を渡り、イエス様を追いかけてカファルナウムまでやってきます。しかし彼らは、5千人の給食の奇跡が指し示している神の国には、何の関心もありません。群衆はひたすら、「もう一度パンを食わせろ」とイエス様に要求し続けます。
もちろん、私たちの「この体」を養う「パン」は重要です。私たちの「この命」が宿る「この体」も、もちろん重要です。聖書の中には、物質は悪で魂は善だとするギリシア的二元論はありません。
しかし、神の賜物である「この体」と「この命」には、それ自身を超える、神からの使命が与えられています。私たちは毎週、「主の祈り」の中で、「御心が天に行われるように、地でも行われますように」と祈ります。まさにこの使命のために、私たちの「この命」と「この体」は与えられているのです。
神が創造された世界の中で、神の御心に従って生きることを通して、天地創造の業に参与し、神の栄光を現す。そのために私たちの「この命」と「この体」は与えられているのです。しかし人間は、創造者であり命の与え主である方の栄光を、神が作られた物、被造物と取り替えました。これを聖書は偶像崇拝と呼びます。
創造者であり、命の源である神から自らを切り離して生きる人間は、「この命」と「この体」を、絶対化し、自己目的化します。命の源である神を離れた「私」は、「天のみこころ」を成すことなど知らず、求めもしない「肉」です。
こうして「私」の「肉」は、私の偶像となり、「私」の「肉」を満足させること、すなわち「私」の欲望を満たすことを追い求めます。このような「私」の姿を、エフェソ4章22節は、「情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人」と呼んでいます。
「情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人」は、命の源から切り離されて、「永遠の死」を生きているが故に、「霊的事柄」について、正しい問いを発することができません。人間は、偶像崇拝という中毒に冒されているがために、自分の肉の奴隷となり、誤った問いを発し続け、自分が何を求めるべきで、何を求めてはいけないかを知りません。
つまり、神の前において、すべての人間は、自分が中毒であることを認めない薬物中毒患者やアルコール中毒患者と同じ扱いなのです。サマリヤ館にやって来る患者たちは、全てを失って人生が破綻するまで、全力を傾けて、どうやってアルコールを手に入れることができるか、どうやってバレないように飲むことができるかと考え続けてます。彼らは、人生が破綻するまで、「どうすればアルコールの支配から逃れることができるか?」とは問いません。
同様に、群衆の姿に示される、命の源から自らを切り離した人間は、どうすれば自分の肉の欲を満たすために、神を利用できるかと考えます。受験の時、結婚の時、出産の時、離婚の時、新車を買った時、その時々の願い事に従って、異なるご利益を謳う神社仏閣を訪ねて回るのは、その典型的表れです。
肉の奴隷となった人間は、どうすれば、偶像の奴隷として永遠の死に至る道から解放され、永遠の命の道を歩むことができるか、とは問いません。正しい問いを知らないからです。全てを失ってサマリヤ館にやって来たアルコール中毒患者たちは、大きな苦しみを伴う、1年から2年の長きに渡る更生プロジェクトの途上で、初めて、自分がアルコールの奴隷であったこと;自分の思考までも酒に支配され、どうやったら酒を飲めるかしか考えていなかったことに気づきます。
そうしてようやく彼らは、「今後、アルコールから解放されて生きるためには何が必要か」という正しい問いを発するようになります。
クリスチャン生活というのは、実は、アルコール依存症からの更生プログラムのようなものです。クリスチャンは、弟子訓練という、苦しみを伴い、時間のかかる、偶像崇拝中毒からの更生プログラムに参加しているのです。
その中で三位一体の神を礼拝し、み言葉を学ぶことを通して、クリスチャンは、古い自分が偶像の奴隷であり、肉の奴隷であり、肉の欲を満足させるために誤った問いを発し続けてきたことに気づかされます。
そして、誤った問いを繰り返してきたことに気づいたとき、ようやく、クリスチャンは正しい問いを発することができるようになり、そして同時に、正しい問いの答えが、すでにそこに示されていたことに、すなわち、イエス・キリストだけが、偶像崇拝という中毒から、人間を解放する解毒剤であることに気づくのです。
「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」(Jn 6:27)