19 Aug 2018
箴言9:1-6; エフェソ5:15-20; ヨハネ6:53-59
私たちは引き続き、ヨハネ6章22節から72節まで続く、大きなエピソードの中にいます。そして、改めて繰り返しますが、この大エピソードの中でイエス様と論争している人々は、イエス様が5つのパンと2匹の魚で養ったあの群衆です。
イエス様は、「もう一度パンを与えて、自分たちの腹を満足させてくれ」と要求する群衆に向かって、ショッキングな宣言をします。「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」と。
もちろん、イエス様と論争しているユダヤ人たちは、「自分たちは生きているから、パンが必要なんだ!」と思っているわけです。しかし「自分は生きている」と思っている人々に向かって、イエス様は、「私の肉を食べない者は死んでいるのだ」と言うのです。イエス様のこの宣言に、ユダヤ人たちは躓きます。
良い教育を受け、良い職に就き、良い結婚をし、病気にならなければ「幸せに生きることができる」と思っている私たちも、「あなたたちの内に命はない」というイエス様の言葉に躓きます。
驚き怪しむ群衆に向かって、イエス様はさらに追い討ちをかけるかのように言葉を続けます。
54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。
旧約聖書に親しんでいれば、このイエス様の言葉が、ユダヤ人にとってどれほど衝撃的であったか、容易に想像がつくはずです。旧約聖書において、血は命のシンボルであり、モーセの律法は、「血を飲むこと」をかたく禁じています。例えば、レビ記17章10節、11節にはこうあります。
10 イスラエルの家の者であれ、彼らのもとに寄留する者であれ、血を食べる者があるならば、わたしは血を食べる者にわたしの顔を向けて、民の中から必ず彼を断つ。11 生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。
神殿の祭壇の上で、命の贖いのための生贄を献げる際、動物の命そのものを現す血は、祭壇の足元にすべて注ぎ出さなくてはなりませんでした。これは、神が命の与え主であり、すべての命は神のものであることを示すと同時に、命は命によって、すなわち血によってしか贖うことができないことを示しています。
しかし、生贄として献げられる動物の血は、神に背を向け、偶像の奴隷として死を生きている者たちに、命を与えることはできません。
ここに重要なポイントがあります。ヨハネは、エルサレムの神殿を中心に展開されるユダヤ教の祭儀、礼拝の枠組みを通して、イエス・キリストの生涯と救いの御業を物語ります。こうしてヨハネは、ユダヤ教の神殿祭儀を、後に現れる本体の影として、あるいはしるしとして、イエス・キリストを現しているのです。
すなわちヨハネは、エルサレムの神殿も、その祭壇の上で献げられる罪の赦しの供え物も、贖いの生贄も、やがて現れるまことの神殿、まことの過越の子羊の影であり、その本体はイエス・キリストであると言っているわけです。
「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」と言うとき、イエス様は、神に背を向け、偶像の奴隷として生きる人間の運命、すなわち「永遠の死」を討ち破る、「永遠の命」としてご自分を示しています。
ヨハネ6章22節から71節に展開される大きなエピソードは、聖餐について語っている箇所ではありません。それでは、「人の子の肉を食べ、その血を飲む」とは、一体何を意味しているのでしょうか?
「人の子の肉を食べ、その血を飲む」という言葉を理解するためには、ヨハネ福音書の文法、テキストの論理を身につける必要があります。最初のヒントは、57節にあります。そこにはこうあります。「57 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」
そして、「わたしが父によって生きる」という6章57節の言葉は、ヨハネ福音書4章、有名な「サマリアの女」の物語によって明らかになります。
イエス様がサマリアの女と話をしておられたとき、十二弟子たちはそこにいませんでした。食べ物を買うために町へ出かけていたからです (Jn 4:8)。弟子たちは、イエス様がサマリアの女とまだ話しておられる間に食料を調達して町から帰って来ましたが、女がイエス様のもとを離れるのを待って、「ラビ、食事をどうぞ」とイエス様に食事をするように勧めます (Jn 4:31)。
するとイエス様はこう答えられます。「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある。」「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」(32, 34)
ヨハネ福音書の文法に照らすと、イエス・キリストの体を食し、その血を飲むとは、主の命じたことを行い、イエス・キリストの忠実な弟子として生きることであることが明らかになります。
使徒たちは決して、「あなたたちは毎週日曜日に聖餐に与かれば救われます」とは言いません。むしろ、「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことにな[る]」と言っています(1Cor 11:27)。
つまり、主の忠実な弟子として、主の言葉に従って生きることを願わない者たちが教会として集まったとしても、主の食卓に与ることにならない、主の体と血を飲むことにならない、と言うのです。
むしろ、主の食卓に与ることは、私たちがキリストの肉を食し、キリストの血によって命を与えられていることのしるしです。
より端的に言えばこういうことです。私たちは聖餐式に与っているから、キリストの体を食し、キリストの血を飲んでいるのではありません。主に従って生き、主の御心を行い、イエス・キリストを証するとき、クリスチャンはキリストの肉を食し、キリストの血を飲んでいるのです。
そして教会は、キリストの肉と血によって養われる群れであることの具体的現れとして、主イエスご自身がホストとして私たちをもてなしてくださる神の国の祝宴の先取りとして、主の食卓を「今、ここで」囲むのです。
パウロは忠告します。
28 だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。29 主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。30 そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。31 わたしたちは、自分をわきまえていれば、裁かれはしません。32 裁かれるとすれば、それは、わたしたちが世と共に罪に定められることがないようにするための、主の懲らしめなのです。(1Cor 11:28-32)
願わくは、主イエス・キリストの内に私たちが生きることによって、キリストの命が、死すべき私たちを生かしてくださいますように。アーメン