聖霊降臨後第15 特定17

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2 Sep 2018

申命記4:1-9; エフェソ6:10-20; マルコ7:1-8, 14-15, 21-23

夏休み中の木曜日、立教女学院で3年間英語の先生をしていた方とお会いする機会があり、教会の現在の危機と、教会の未来に向けて何が必要かという話で盛り上がりました。彼女は女学院を卒業した後、ICU、国際基督教大学に進み、大学時代にICU教会で洗礼を受けた方です。

旦那さんの仕事の関係でロサンゼルスにいる間に、英文学の研究でPhD、博士号を取り、日本に戻ってきてからは関西で英語を教えておられました。関西から東京に戻ってからは、旦那さんの大学時代の友人が牧会している、近所の日本基督教団の教会に、ご夫妻で通い始めます。

この教会は、プレスビテリアン、長老派の伝統に属する教会で、彼女は数年前、教会の長老に選ばれました。ところが、彼女は無教派でエキュメにカルな背景のICU教会の出身なので、長老派、つまりカルヴァンの伝統に属する教会について、ほとんど何も知りませんでした。そこで彼女は長老派という教会の歴史的発展について勉強を始め、長老派の中心地であったスコットランドまででかけてゆきます。

私たち話が最も盛り上がったのは、伝統の見直しの必要性に話が及んだ時でした。彼女は長老主義が発展した歴史的文脈や社会背景を学んだ上で、長老主義の「伝統」と呼ばれるものの中には、もちろんいいものもあるけれども、後生大事に守る必要のないものも沢山あると思う、そう言います。

例えば、日本ではほとんど知られていませんが、1560年以降、スコットランドではクリスマスを祝うことが禁じられました。1640年には、クリスマスの禁止はスコットランド議会によって法制化され、クリスマスを祝うことは犯罪行為となりました。46年後の1686年にこの法律は廃止されますが、クリスマスの禁止は1958年まで続きます。

1560年の始まりから1958年までのクリスマス禁止の歴史を見れば、それがCalvinismの伝統の周辺ではなく、その核に位置付けられていたことがおわかりになるでしょう。しかし、ほとんどの日本人クリスチャンにとっては、そもそも、クリスマスの禁止が長老教会の伝統になったということの意味がわかりません。

どんなに長く、強固な伝統であろうが、今日の、しかも日本に置かれている長老教会が、キリストの弟子として生きる上で、クリスマス禁止の伝統は、何の役にも立ちません。

今日の福音書朗読の中でイエス様は、イザヤ書を引用しながら、律法の専門家を自称する律法学者と、律法に忠実に生きていると自称するファリサイ人たちを激しく非難します。自分たちは律法に忠実に生き、正しく神に礼拝をささげていると信じている律法学者とファリサイ人に向かって、イエス様はこう言います。

8「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」9「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。」

イエス様はここで、伝統主義者のファリサイ人と律法学者が、「神の掟」を「人間の言い伝え」と取り替えていると言っているのです。

これは2千年前のファリサイ派と律法学者だけの問題ではなく、現代の教会が直面する、最も深刻な問題です。

今日の福音書朗読から外されたマルコ7章10節から13節は、人間の言い伝え、すなわち「伝統」が、如何にして神の掟を無効にするか、具体例が示されています。神の掟を人の言い伝えと取り替えようとする誘惑から自由な者は、一人としてありません。

サタンの最大の目標は、教会を転覆させることであり、クリスチャンは最も激しい悪魔の攻撃に曝されています。だからこそパウロはこう警告します。

11 悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。12 わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。

武具は平和なときには不要なものです。しかし戦闘の最前線では、武具を身につけずに生き残ることはできません。武具を身につけるようにと命じられているのは、クリスチャンは霊的戦闘の最前線に置かれているからです。丸腰で最前線に出れば、あっという間に命を失います。霊的武器を身につけ、戦うための訓練を受けなければ、クリスチャンはあっという間に悪魔の餌食になります。

そして最も危険な悪魔の攻撃は、常に内側から来ます。つまり私たちの内側から、そして教会の内側からです。新約聖書の書簡を読めば、使徒たちが最も恐れ、もっとも警戒した教会の敵は、偽教師と偽預言者だったことに気づきます。偽教師と偽預言者は教会の「内側から」出てきて、神の掟を人の知恵、人の言い伝えと置き換えます。

西洋における「伝統的教会」の衰退は驚くべきものです。様々な調査が示す数字は、「伝統的」プロテスタント教派のほとんど全てが、今世紀中に姿を消すことを告げています。1828年に創刊され、190年の「伝統」を持つSpectatorという英国の政治文化雑誌は、「最も信頼しうる統計」に基づいて、2067年にはイギリスからキリスト教が消滅すると警告しています。

では、なぜ、教会が教会の伝統の重荷に耐えられずに次々と滅びる。そんなことが起きるのでしょうか?それは「人の言い伝え」を神の掟の前に置いてきたからです。「伝統」という言葉は往々にして、自分の好みを押し付けて、必要な変化を拒むための隠れ蓑に使われます。こうして人間的好みが、教会の成長と宣教のために必要な変化に優先されます。

礼拝式文をスクリーンに映すことが、紙の式文に劣るわけでもありません。むしろ初めて教会に来た人にとっては、次は何のどこを開けば良いのかと心配するプレッシャーから解放されて、よっぽど親切です。神はパイプオルガンの伴奏は喜ばれるけれども、ピアノやギターには耳を塞ぐなどということもありません。

教会が豊かな実を結ぶか、あるいは枯れ果ててしまうかは、「神の掟」と「人の言い伝え」を識別できるかどうかにかかっています。そしてクリスチャンという生き方は、「神の掟」と「人の言い伝え」を識別するスキルを学ぶプロセスそのものなのです。

ヨハネ福音書が明確に語っているように、イエス・キリストは神の言葉であり、そしてキリストは神の掟そのものです。教会はみ言葉を通してまことの神の掟であるイエス・キリストを知り、キリストによって「伝統」を識別することで豊かな命を結びます。

私たち一人一人がみ言葉に養われ、神の掟であるキリストを通して伝統を識別し、教会が豊かな実を結ぶために、変わることを恐れない者となることができますように。