30 Sep 2018
民数記 11:4-6, 10-16, 24-29; ヤコブ 4:7-5:6; マルコ 9:38-43, 45, 47-48
先週の金曜日の早朝、私が大変お世話になっているクリスチャンの友人からパソコンにメッセージが入りました。
彼女は今、キリスト教の霊性、spirituality に関する本を読んでいるそうで、その中に「キリスト教の霊性を考える時、性別の違いによって罪の概念を区別する考察」という項目があったのだそうです。そして、そこには「男性に際立つ罪としての自尊心」と書かれていました。
彼女の質問はこうです。「自尊心は罪ですか?」答えは ‘Yes’ です。
恐らく、友人が読んでいるのは英語で書かれた本の日本語訳で、「自尊心」と訳された元の言葉は ‘pride’ でしょう。
テレビも、映画も、音楽に代表される、いわゆるポップ・カルチャーは、「自分を信じろ」、「自分に誇りを持つんだ」というメッセージに溢れています。この世においては、プライドは肯定的なものであり、称揚すべきものです。
ところが、神の国において、プライドは根本的悪徳であり、究極の悪であり、そして、あらゆる悪の根です。
それ故、キリスト教信仰の伝統の中で、悪魔はプライドによって悪魔となったと言われてさえいます。
C. S. Lewisの表現を借りれば、プライドは地獄から来ているのです。
ではプライドの何がそれほど問題なのでしょうか?
プライドは本質的に比較に基づいています。比べること、張り合うこと抜きにプライドはありません。見下すこと無しにプライドはありません。
プライドは何かを得ることに喜びを見いだすのではありません。人よりも「多く」持っている、人よりも裕福である、人よりも賢い、人よりも美しいことに喜びを見いだすのです。
すべての者が同じように裕福で、同じように賢く、同じように美しかったなら、そこには誇るべきことが何もありません。
年収5千万の人に、年収1億欲しいと思わせるものは何でしょうか?それは貪欲ではなく、プライドです。年収が1億になったら、年収5千万のときの2倍快適な生活を送れるようになるわけではありません。
旅に出かけて、一泊2万円のホテルの部屋の代わりに、一泊30万円のスイートに泊まると、15倍の充実した旅になるわけでもありません。
5千万円のフェラーリを運転すれば、250万円の国産車よりも20倍早く目的地に到達できるわけではありません。
プライドの本質は、人に優越することであり、人をコントロールすることであり、それは力への欲望に根ざしています。
プライドが本当に喜び楽しんでいるのは力なのです。端的に言えば、プライドは人々をおもちゃの兵隊のように動かし、操作し、支配することに優越感を見出します。
自分の中のプライドが強ければ強いほど、他人の中にプライドを見る時の憎悪は大きくなります。一人のプライドは、常に他の者たちのプライドと衝突し、闘争状態にあります。
二人の人間がプライドを追い求めている時、つまり自分に関心が集まり、自分が賞賛されることを求めるとき、この二人の間に妥協はありません。プライドのあるところに平和は無いのです。
軍拡競争の背後にあるのはプライドであり、軍事的緊張を高めるのもプライドです。国々は、敵よりも大きな領土を、敵より多くの核弾頭を、敵よりも殺傷能力の高い兵器を求めています。
国々は、敵の攻撃によって受けた以上の被害を相手に与えることを目指して報復します。
プライドが頂点に達した時、人は他の人々のことをまったく顧みなくなります。
もちろんイエス・キリストの忠実な弟子として歩もうとする者にとって、基準は人からどう評価されるかではなく、主への忠実です。
しかし、プライドによって人を顧みなくなるということは、キリストへの忠実の故に、人の言葉や評価に惑わされないようになるということとはまったく違います。
プライドが頂点に達した者にとって、人は人で無くなるのです。自分は他の者たちよりも優れており、より支配的な立場にあると信じるが故に、他の人間が問題にならなくなるのです。
プライドは独裁者の生みの親です。ヒトラー政権が称揚したドイツ人としての誇り、プライドが、コインの表だとすれば、ユダヤ人を見下すことはその裏面です。
日本人の誇りを取り戻すと主張する政治家やその取り巻きたちが、常に、中国人、韓国人、朝鮮人に対する憎悪を燃やすのは何故か、すでにお分かりでしょう。
貪欲や自己中心によって起きていると考えられているほとんど全ての悪は、プライドに由来しているのです。
すでに明らかなように、プライドは常に憎悪と敵意を意味します。しかし、この敵意は人と人との間にとどまるものではありません。プライドは神に対する憎悪であり敵意なのです。
人が神の前に立つ時、全てにおいて自分を凌駕する方に対峙します。神の前では、人は無に等しい存在です。それゆえ神と張り合うことは無意味だと気づかない限り、人は神を知ることはありません。
プライドは、見下すことに喜びを見出すので、自分の上にある方、自分を超える方を見ることができません。それ故、プライドがある限り、人は神を知ろうともしないし、神を知ることもできません。
このように、プライドは完全に神に敵対する精神状態であり、プライドは愛すること、互いに仕えることの対局にあります。
教会にプライドを持ち込むことは、教会の主、イエス・キリストを捨てて、サタンの支配下に再び下ることを意味します。
そのような教会で何が起きるのか。その最もおぞましい例の一つが、ヤコブが手紙を宛てた教会です。
この教会は金持ちがコントロールし、貧しいメンバーたちは、金持ちのメンバーによって虐げられていました。
金持ちのメンバーの関心は、自分をさらに豊かにすることでした。彼らは貧しいメンバーたちを、自分たちが富を蓄積するための手段としか見なしていませんでした。
富めるメンバーたちは、自分たちの畑の刈り入れをさせるために、貧しいメンバーを働かせました。しかし金持ちのメンバーは、賃金を払うことを渋ったのです。
貧しいメンバーたちはその日の糧を得ることができずに飢え、そして死んでいくのをよそに、金持ちのメンバーたちはぜいたくに暮らして、快楽にふけっていました。
金持ちのメンバーたちの生き方が、イエス・キリストではなく、プライドに導かれていたことは、ヤコブの手紙2章の全体、そして4章の全体から明らかです。
そしてヤコブは、金持ちの教会のメンバーに向かって、滅びを宣言しているのです。このヤコブの宣告に響いているのは、イエス・キリストご自身の言葉です。
主はこう言っておられます。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。」
43節以下のイエス様の厳しい言葉は、42節に続いていることに注目してください。
イエス・キリストに結ばれて神の国の命を生き、救いに与るか、教会のメンバーになりながらも滅びに定められるかは、イエス・キリストを信じる最も小さな者、最も貧しい者への態度にかかっているのです。
神の国の命、イエス・キリストが与える救いは、子どもたち、そして最も貧しいメンバーを、豊かに生かそうとする教会にのみあります。
教会は、子どもたちと最も貧しいメンバーに仕え、神の国のコロニーとして生きることを通して、王なるイエス・キリストをこの世に示すために呼び出された、新しい神の民なのです。
この世に富を蓄える滅びの道を捨て、子どもたちと最も貧しいメンバーに仕えることを通して、天に宝を積む命の道を選ぶことができるよう、共に祈り求めましょう。