2018年10月7日 特定22説教

 

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創世記 2:18-24;ヘブライ 2:9-18;マルコ 10:2-9

随分前のことですが、ある教会のメンバーの方が何気無く私に話してくれた内容に、大きなショックを受けたことがあります。

その方は、自分の娘が上智大学に入学して、キリスト教倫理という講義を受けていたそうです。そして「彼女がカトリック倫理を学んでいることが心配だ」と言うのです。

私は一体どういうことなのか分からず、「どうしてですか?」と聞き返しました。すると、「離婚や中絶が罪だなんていう、カトリックの教えを押し付けられては困る」との返事が返って来ました。

つまりこの方は、カトリックは中絶も離婚もだめだけれども、聖公会ではどっちもOKだと思っておられるのです。

確かに、聖公会はスネに傷のある教会です。悲しいかな、どんなに言い訳をしてみたところで、「Anglicanはヘンリー八世が離婚したいからできた教会でしょう」という世間の「評価」を避けることはできません。

その上、 Anglicanは離婚できる教会であるかのように語る人も少なくありません。離婚をしたい、あるいはすでに離婚したメンバーも多く、離婚している教役者の数も増加の一途を辿っています。

この「教会における離婚の増加」という現象の背後に隠れていて、全く意識に上ってこない本当の問題は、実は、ほとんどのクリスチャンが、結婚とは何か知らないということです。

結婚の意味は、イスラエルとイスラエルの神との関係を理解できなければ、理解ができません。結婚は神の創造の業の秩序の中に位置付けられており、神によって定められた。この理解は、イスラエルという民の信仰に根ざしています。

結婚がイスラエルという民の中で起きる、信仰の出来事であるということは、結婚は「個人的な事」ではありえないということです。

イスラエルという民の外で、男と女が一緒に生活しようが、財布を一つにしようが、性的関係があろうが、子どもが生まれようが、あるいは子どもそ育てようが、それをどう呼ぼうとも、結婚にはならないわけです。

ユダヤ人の男性にとって、結婚は義務であり、結婚をしないことは罪でした。なぜなら、約束の民としてのイスラエルは、結婚に依存する共同体だからです。

ユダヤ人同士が結婚し、子孫を残すことは、約束の民の存続と維持のために絶対不可欠です。ですから、ユダヤ人にとって、結婚をしないという道はありませんでした。

結婚は、個人のためや、結婚する二人のためにあるのではなく、イスラエルという共同体に仕えるためにあるのです。

結婚が民のため、共同体のためにあるという理解は、新約聖書の時代になっても、教会に引き継がれます。クリスチャンにとっての結婚は、新しいイスラエルである教会という共同体に位置付けられています。

結婚は共同体に仕えるためにあるという点において、古いイスラエルと、新しいイスラエルとしての教会は、理解を共有しています。

しかし古いイスラエルとは違って、新しいイスラエルとしての教会は、その存続と成長と維持とを、結婚に依存していません。

教会は、この共同体の外にいる人々に福音を告げ知らせ、新たなイエス・キリストの弟子を作ることによって、その命を維持し、そして成長します。つまり新しいイスラエルである教会は、血縁ではなく、養子縁組に基づく共同体なのです。

教会が養子縁組に基づく共同体であるが故に、結婚は、全メンバーの義務では無くなりました。

結婚しない道も、結婚する道も、どちらも教会の命に仕える道となったのです。ペテロは結婚していて、パウロは結婚していませんでした。しかし、二人とも使徒であり、教会に仕える者であり、彼らの奉仕の価値が、結婚しているかしないかによって変わることはありませんでした。

教会にあって、独身と結婚とが同じ重要性を持っているのは、結婚しているメンバーと共に、独身者も、教会の子どもたちを育てる責任を負い、教会の成長に貢献するからです。

洗礼は人々を「神の養子」とします。同時に、この洗礼は、養子縁組によって神の子とされたすべての大人たちを、教会の子どもたちの親にします。

洗礼は、結婚している夫婦だけでなく、独身のメンバーたちをも親にするのです。そして、すべての成人したクリスチャンは、子どもたちをイエス・キリストのもとへ招く義務を負います。

教会という共同体の中で、結婚せずに独身を貫く人たちが犠牲にするのは、第一義的には、性的快楽ではありません。結婚しない道を選ぶ人たちが犠牲にするのは、血縁による跡取り、子孫です。

独身の道を選ぶクリスチャンは、復活の命の希望の故に、子孫を残すことで自分の命を永続させようとする偽りの希望に背を向け、イエス・キリストのもとに人々を招き、新たな神の子を生み、そして育てるために仕えます。

他方、クリスチャンの夫婦にとって、「新しい命を迎える」ことは義務なのであって、教会は、子どもを迎えるつもりのない男と女を結婚させることできません。

命が神の賜物である限り、結婚した夫婦に子どもが与えられるか、与えられないかは、私たちにはわかりません。

しかし、クリスチャンの男と女が結婚する限り、クリスチャンの夫婦が、「私たちは子どもは要りません」とか、「子どもは作りません」言うことは許されていません。

私の恩師の一人は、ある本の中でこのように言っています。

私たちが子どもを作ることができるのは、私たちの希望が神にあるからであって、この神が、子どもを作るなどという馬鹿げたことを可能にするのだ。

これほどの不正に溢れ、これほどの悲劇に満ち溢れ、私たちの子どもを殺そうとさえするような世界の中で、子どもを作るということは、常識はずれな、信仰と希望の業だ。

しかしクリスチャンとして、私たちは子どもたちを喜んで迎え入れるようにと命じる神に、希望を置くことができる。だからこそ、神に希望を置いて子どもたちを迎え入れることは、卓越した信仰の証となる。

イエス様ご自身の言葉から、そして使徒たちの教会が残した証から明らかなように、教会の実践の中で、子どもを迎え、子どもたちのケアのために時間を割くということほど重要なことはありません。

多くのクリスチャンが誤解している点ですが、教会において、「愛」はことさら結婚と結びついているわけではありません。「互いに愛し合う」ことは、すべての教会のメンバーに対する主の命令であって、クリスチャンは結婚していようがいまいが、愛し合う義務を負っています。

クリスチャンは、結婚しているから愛し合うのではありません。クリスチャンは、結婚していて「さえも」、相手を愛さなくてはならないのです。

古いイスラエルにおける結婚と、教会における結婚との間にある最も重大な違いは、主イエス・キリストにあって結ばれた男と女は、結婚という歩みを通して、キリストと教会の神秘を証する使命を担っているということです。

キリストから切り離された教会というものが存在しえないように、主にあって結ばれた男と女は、神によって一つの体とされるのであって、それは切り離しようがありません。

頭と胴体を切り離して生きていられる人間がいないように、一つの体となったものを引き裂くことはできません。

一人の男と一人の女が結婚するときには、教会が、共同体がその証人となります。それは、結婚する男と女に忠誠を守らせるためです。証人たちは、結婚する男と女に約束を守らせるためにそこにいる、プレッシャー・グループなのです。

ですから、教会で結婚することは恐ろしいことであって、まったくロマンチックなことではありません。

クリスチャン夫婦が次々と結婚を解消する現実は、結婚の意味を知り、それを支える共同体が崩壊していることの最も明白なしるしです。

この悲しい現実は、私たちが一体どのようなキリストを宣べ伝え、どのようなキリストを信じ、どのようにキリストを理解し、そしてどのような教会を建て上げているのかを問い直すように、私たちに迫っています。

最後に皆さんに覚えていただきたいことがあります。それは、結婚を支えられる共同体があるところには、離婚の痛みと悲しみを通った者たちにも、絶望ではなく、悔い改めを通して、与えられるまことの希望があるということです。

願わくは、教会のために御自分をお与えになったキリスト・イエスが、結婚を支えることのできる共同体を回復してくださいますように。