10月14日(日)特定23説教

camel needle

 

アモス5:6-7, 10-15; ヘブル3:1-6; マルコ 10:17-31

今朝の福音書の中で、イエス様のところに走り寄って、「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねた男は、「たくさんの財産を持っていた」と記されています。

「たくさん財産を持っている」と聞くと、私たちは殆ど自動的に、その人は金持ちだと考えます。ところが、この世の富を持っていることを、頭の中で即「金持」ちと翻訳してしまうと、聖書を理解する上で、特に旧約聖書を読むときに、ちょっとした問題が生じます。

旧約聖書のイスラエルの民は、私たちが当たり前と思っている貨幣経済を知りません。彼らの経済は物々交換の経済ですから、そこではある価値があるものと、別の価値があるものとが交換されるわけです。

それに対して、貨幣というのは無価値です。お金を食べられるわけでもなければ、飲むことができるわけでもなければ、お金を着ることも、お金の中に住むこともできません。実は、貨幣経済というのは巨大な虚構であって、人々が「金は無価値だ」と気づいた瞬間に崩壊する運命にあります。

旧約聖書のイスラエルの人々の世界では、この世の富というのは井戸、家畜、畑、収穫物、テント、衣服、食料といった、人々の生活に直接結びついたものです。

イスラエルの信仰において、神は全てのものの造り主であり、そして与え主ですから、生活を支えるためのこの世の富も、神によって与えられる祝福とみなされています。何人たりとも、この世の富無しには生きられないわけですから、これは当然のことです。

例えば、箴言にはこのようにあります。

3 主は従う人を飢えさせられることはない。逆らう者の欲望は退けられる。4 手のひらに欺きがあれば貧乏になる。勤勉な人の手は富をもたらす。5 夏のうちに集めるのは成功をもたらす子。刈り入れ時に眠るのは恥をもたらす子。6 神に従う人は頭に祝福を受ける。神に逆らう者は口に不法を隠す。7 神に従う人の名は祝福され、神に逆らう者の名は朽ちる。(箴言10:3-7)

他方、旧約聖書は、この世の富が、それを正しく用いることのできる相応しい人に常に与えられるわけではないことも知っていました。

ですから列王記や歴代誌に名前の登場する殆どの王たちは、この世の富を豊かに持ちつつ、神に反逆した不正な者として記されています。

旧約聖書の預言書と呼ばれる書物は、貧しい者を虐げ、富を積み上げる者達に対する神の裁きの宣言に溢れています。

そして今朝の第一朗読にはこうありました。

10 彼らは町の門で訴えを公平に扱う者を憎み、真実を語る者を嫌う。11 お前たちは弱い者を踏みつけ、彼らから穀物の貢納を取り立てるゆえ、切り石の家を建てても、そこに住むことはできない。見事なぶどう畑を作っても、その酒を飲むことはできない。12 お前たちの咎がどれほど多いか、その罪がどれほど重いか、わたしは知っている。お前たちは正しい者に敵対し、賄賂を取り、町の門で貧しい者の訴えを退けている。

聖書全体を通して見ると、この世の富そのものは善きものでありながら、善きものを善き業のために用いる者、神の御心に従って用いる者は殆どいないことが明らかになります。

むしろ、富める者が神に従う者であるというケースは非常に例外的で、圧倒的大多数は、神への反逆者です。

旧約聖書において、この世の富は祝福と見なされているにも関わらず、富そのものを求めることは全く勧められていません。むしろ聖書は、富を追い求めることに対する警告に満ちています。

聖書の中には、自分のために富を蓄積することを正当化する理論は存在しませんが、人間の側は常に、貧しい者を利用し、搾取し、自分のために富を蓄積することを正当化する、虚構の理論を作り上げます。

例えば、西洋世界では、19世紀初頭に、William Wilberforceと彼の仲間の努力によって奴隷貿易が廃止されるまで、奴隷は人間ではないと主張する「理論」が、その制度が生み出す利益の故に正当化され続けてきました。

多くのの場合、「現実主義」という言葉の実態は御都合主義でしかなく、してはならないことをすることを「正当化」するために振りかざされます。

それに対して、イエス・キリストが私たちを招いている神の国の命は、互いに愛し、互いに仕え、そして富を分かち合うことにあります。

『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟を子供のときから守ってきました、そう自信を持って答えた裕福な男は、「それならあなたは永遠の命を得る」と言ってもらえると思っていたでしょう。

しかし永遠の命は、イエス様と旅をすること無しには与えられません。そして、イエス様と共に旅をすることで、弟子達が学ばなくてはならないことは、互いに愛し、互いに仕え、そして富を分かち合うことです。

これはそのまま、自分のために富を蓄えることを諦めることを意味します。

永遠の命を得るには何をしたらいいかとイエス様に尋ねた裕福な男は、自分のために富を蓄える道を捨てられませんでした。

富を捨てることに不安と恐れを感じるのは、捨てることで自分の生活と安全が危機にさらされると思うからです。そして私たちがそのように恐れるのは、「富を失ったら誰も自分を助けてはくれない」と考える、相互不信の世界に生きているからです。

しかし、もし、自分が富を失っても、仲間が必ず支えてくれると信じている世界であれば、私たちは恐れを捨てることができるでしょう。

30年後、私の子どもたちは、今、私たちが当たり前だと思っている世界とはまったく違う世界に生きているだろうと私は思っています。

野村総合研究所の宇都正哲(うとまさあき)さんは、「経済活動のベースになるインフラは、東京五輪までがピーク。われわれはその利便性を享受できる最後の世代だ」。そう断言します。私は彼の見立ては正しいと思います。

私の子供達の世代が30年後に直面するのは、保険も年金も破綻し、インフラは軒並み老朽化し、ゴーストタウンと廃墟に覆われた世界だと思っています。

その時、自力で勝ち抜き、富を蓄積し、自分の生活と安全を保障しようというモデルでは、もはや生きていけないでしょう。複数の家族、世帯が共に生活し、支え合うモデルが絶対に必要とされるはずです。

しかし、それはすでに新約聖書によって示されています。新約聖書に描かれている教会は、人の力では不可能な生き方を、神の力によって実現する共同体です。聖霊の力によって、互いに愛し、仕え、そして富を分かち合う共同体です。

人間には不可能でも、神に不可能なことはないというのは、地上に宝を積んだままでも金持ちが天の国に入るための抜け道を、神様が用意してくださるという意味ではもちろんありません。

人間的には、大きな財産を持つ者が、イエス・キリストと旅をするために、神の国の命のために、富を捨てることは不可能に見えます。

しかし神は、莫大な財産を持つ者が、神の国の命のために、キリストの弟子として歩むために、その富を手放すことを可能にします。

秀吉から、キリストを捨てるか、自分の地位と領地・財産を捨てるかと迫られたユスト高山右近は、キリストのために全てを捨て、マニラに島流しとなり、そこで一信徒として生涯を終えました。彼の歩みはまさに、人には不可能だけれども、神によって可能とされたものです。

「すべてを捨てて私に従いなさい」と言われる方は、私たちに「すべて」を与えてくださっている方です。滅びる命に代えて、永遠の命を与えるために「ご自分を与えられた」方です。

私たちと共に旅をし、神の国の命に私たちを招いてくださる主イエス・キリストに、心からの感謝と讃美を献げましょう。