特定24 説教

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21 Oct 2018 Proper 24 イザヤ 53:4-12; ヘブライ 4:12-16; マルコ 10:35-45

今日の第1朗読の箇所は、新約聖書全体が私たちの前に提示しているイエス・キリストを理解する上で、最も重要なテキストの一つです。

現代の最も優れた新約聖書学者の一人、Richard Bauckhamは、『イエスとイスラエルの神』と題した著作の中で、第一世代のクリスチャンたち、つまり使徒たちとその直後の世代のクリスチャンにとって、イザヤ書40章から55章以上に重要な旧約聖書の箇所は無かったと言っています。

新約聖書に親しんでいるクリスチャンであれば、今朝読まれたイザヤ書53章の言葉が、新約聖書のあらゆる書物を通して響いていることに、直ちに気づきます。イザヤ書40章から55章の歴史的背景にあるのは、バビロン捕囚という出来事です。イスラエルが統一王国であったのは、サウル、ダビデ、そしてソロモンが治めた120年間だけで、ソロモンの死後、紀元前930年に、王国は北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂します。

北のイスラエルは紀元前722にアッシリアによって滅ぼされ、南のユダ王国は紀元前586年に、新バビロニアによって滅ぼされ、ユダ王国の指導的立場にあった者たちをはじめ、民の多くが、捕囚としてバビロニアに連行されてゆきました。これがイザヤ書40章から55章の歴史的背景にある、バビロン捕囚であり、イスラエルの民は異教徒の支配の下、奴隷としての生活を強いられていました。

イザヤ、エレミヤ、エゼキエルといった、ユダに遣わされた預言者たちは、声を一つにして、そして繰り返し繰り返し、ユダの民が捕囚となったのは、彼らが神に背を向け、偶像の神に仕えたからだと告げています。彼らは、自分たちが犯した罪の故に、バビロンで捕囚となっているのです。

イスラエルという民を選び、イスラエルという民を生み出したのは、天地を造り、統べ治めておられる神です。イザヤ42章6節はこのように言っています。「主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として、あなたを形づくり、あなたを立てた。」

しかし、この民は偶像に、偽りの民に惹かれ、神に背を向け続けます。偶像は常に、私たちの感覚と、私たちの欲望に訴えかけます。神が取って食べるなと命じた木の実は「いかにもおいしそうで、目を引き付け」たと創世記3章が記している通り、偶像崇拝は私たちの目に魅力的に映ります。

人は常に、特に、支配者になりたい、権力を握りたい、人よりも豊かになりたいと思っている者たちは、すべての者に憐れみ深く恵み豊かな神ではなく、自分だけを優遇し、自分の願いだけを聞いてくれる、自分に都合のいい神を追い求めます。自分の願いを叶え、欲望を満たしてくれそうな偶像に、人は惹かれ、これに仕えることによって、偽りの神の奴隷となります。

バビロン捕囚は、まことの神を捨て、偶像に仕える者が、この偽りの神の奴隷となり、偶像と共に滅びることを示す、歴史的しるしです。

しかしご自分の契約に忠実であられる神は、まことの神を捨て、偶像の奴隷となり、滅びようとしている民に向かって、再び呼びかけます。
神である方、天を創造し、地を形づくり、造り上げて、固く据えられた方。混沌として創造されたのではなく、人の住む所として形づくられた方、主は、こう言われる。わたしが主、ほかにはいない。(イザヤ 45:18)

神はまた、世界を創造し、統べ治めるまことの神のみが、罪によって奴隷となっている民を解放し、罪の赦しを与え、救うことができることを告げます。

わたし、わたしが主である。わたしのほかに救い主はない。(イザヤ 43:11)

地の果てのすべての人々よ、わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。(イザヤ 45:22)

今朝の第一朗読、イザヤ書53章4節から12節は、イエス様の教えを理解し、イエス様はどんなキリストであるかを理解し、イエス様が宣べ伝えた神の国とは何かを理解するために、つまり使徒たちが宣べ伝えた福音を理解し、新約聖書全体を理解するための鍵となる箇所です。

ところが、興味深いことに、イエス様が地上の生涯を歩まれたとき、あるいはその前の時代、イザヤ書53章に記されている「苦難の僕」は、ほとんど注目を浴びることはありませんでした。端的に言えば、ユダヤ人のメシア待望の中に、苦しむメシアは存在しなかったのです。

例えば、紀元前1世紀に書かれた、旧約聖書のアラマイ語の註解書、タルグムは、イザヤ書53章の「僕」をメシアと結びつけて解釈しています。ところが、「苦しみ」に関する記述は、メシアなる僕から完全に切り離されています。

4節から12節に記されている苦しみについて、タルグムほ4つの異なる解釈を示しています。1) エルサレム神殿が異教徒に蹂躙されること、2) 捕囚の民が救いに至るために通らなければならない困難、3) まことの残りの民が精錬され、清められるために通る苦しみ、4) メシアが敵に対して加える苦しみ。

この4つ目の解釈こそが、今朝の福音書朗読における、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」というヤコブとヨハネのリクエストの背後にあるものです。

弟子たちは皆、イエス様が、イスラエルが異教徒たちから被った苦しみを倍返しにして、敵を武力で蹴散らし、軍事大国としてのイスラエル帝国を創設してくれると期待していたのです。

使徒たちも他の弟子たちも、イエス様が教えを語られているとき、イエス様が神の国のしるしとして奇跡の業を行われていた時、そして悲劇的としか見えない出来事が次々とイエス様に起こっているとき、誰もその意味を理解できませんでした。今朝の福音書朗読は、そのことを何よりもよく示しています。

もちろん彼らは、「43 あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」というイエス様の言葉も理解できませんでした。

しかし復活の主によって建てられた使徒たちの教会は、イザヤ書40章から55章のテキストを注意深く読むことを通して、初めて、イエス様の語られたこと、イエス様がなされたこと、そしてイエス様に起こったことの意味を理解できるようになりました。

そして、使徒たちとその教会は、イエス・キリストの内に、世界を創造し、統べ治めると同時に、ご自分を低くして人々のもとに降り、人々に仕え、人々を罪の奴隷から解放するために、ご自分を与える神を見出したのです。

「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」方です (ヘブライ 4:15)。この救い主は、私たちの悩み、苦しみを知っておられ、試練と共に、試練からの脱出の道を備えてくださる方です。

教会の頭であるイエス・キリストは、私たちが行き着きうる、もっとも低い所に降られた神です。十字架の死に至るまでご自分を低くされたイエス・キリストは、人の目には絶望としか見えないところでさえ、共におられ、約束された罪の赦しと解放を、永遠の命を与えることがおできになる、神の子羊です。

初めであり、終わりである方。(イザヤ 44:6)「玉座に座っておられる方と小羊とに、賛美、誉れ、栄光、そして権力が、世々限りなくありますように。」(黙示録 5:13) アーメン