04 Nov 2018 Proper 26: 申命記 6:1-9; ヘブライ 7:22-28; マルコ 12:28-34
今日の箇所に出て登場する律法学者は、マルコ福音書に登場する4人の質問者の最後を飾る人物です。12章13節から17節では、普段は敵対関係にあるファリサイ人とヘロデ派の人が、イエス様を罠にかけるために協力し、皇帝に税金を払うことは神の掟に、律法に適うことか否かと質問します。
その後には、サドカイ派の人々が、復活を否定する論陣を張るためにイエス様に挑戦します。つまりイエス様は復活のことを語り、教えていたことを皆知っていて、サドカイ派の人々は復活を否定することで、イエス様の教えておられることを貶めようとしたわけです。
ところがイエス様は、彼らの企みを見抜き、そして返り討ちにしました。今日の福音書朗読に登場した律法学者は、イエス様が見事に答える様子を見て、尋ねました。「すべての掟の中で、第一のものはどれか」と。
旧約聖書の中には、様々な掟がありますが、律法の専門家たちも、すべての掟が同じ重要さをもっているわけではないことを知っていました。律法の専門家の間では、モーセの律法には613の掟があり、365は否定の掟、つまり「何々してはならない」という命令、248は肯定の掟、「何々せよ」という命令があるとの共通理解があったようです。
イエス様に質問をした律法の専門家は、これら613の掟の中で、頂点に来る掟は何かと尋ねたわけです。つまりこの律法学者は、多くの掟の基底をなすアルゴリズムは何かと聞いているわけです。
ユダヤ人にとって、掟とは「トーラー」の中に見出されるものです。「トーラー」というのは、通常、旧約聖書の創世記から申命記までの五つの書物を指していて、それは神が、モーセを通して、イスラエルの民に与えたものです。
そして神がモーセによって与えられたトーラーの中には、掟の中の掟と言うべきものがあります。それが「モーセの十戒」です。これらの掟は、神ご自身の指によって二枚の石の板に書き記され、モーセに与えられました。
しかし、モーセがシナイ山から降りて来ると、彼は、民が偶像に仕え、馬鹿騒ぎをしているのを目にして、怒りのあまり、神の掟が記された二枚の板を叩き割ってしまいます。神は憐れみをもって、モーセが叩き割った二枚の板に記されていた同じ掟を、再び二枚の石の板に書き記し、モーセに与えられました。
そしてこの二枚の板は、「契約の箱」と言われる木製の箱の中に収められ、この十戒を収めた契約の箱は、幕屋の至聖所に据えられたのでした。つまり、「モーセの十戒」は、イスラエルの民の礼拝と生活の中心に据えられた掟なのです。
そうしますと、イエス様に対する律法学者の問いは、掟の中の掟である十戒を支える、根源的掟とは何かということになります。これに対してイエス様はこう答えます。
29 第一の掟は、これである。「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」
これは申命記6章5節の引用で、敬虔なユダヤ人たちは朝と晩、一日に二回、必ず唱えた言葉です。
ここで一つ、興味深いことが起こります。イエス様に質問をした律法の専門家は、「すべての掟の中の第一はどれか」としか聞いていません。ところがイエス様は、聞かれてもいないのに、第二の掟にも言及して、こう言われます。「31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この第二の掟はレビ記19:18からの引用です。そして、こう締めくくります。「この二つにまさる掟はほかにない。」
律法学者はすんなりと、イエス様のこの答えを受け入れ、正しい答えだと認めます。しかしこの律法学者がここで気づいていないことが二つ、いえ三つあります。 一つは、自分とイエス様の立場とが、全く逆だということに気づいていないということです。
律法学者は、イエス様に質問をし、その質問に対する答えが正しいか、誤っているか判断できる、judgeできる立場にいると思っています。しかし実際には、この律法学者も含めて、すべての人は、イエス様の前に立ち、そしてイエス様によって、判断される、つまり裁かれる立場にあります。このことを示して、イエス様は律法学者に対して、こう言われます。「あなたは、神の国から遠くない。」
神の国は、神が統治する国です。その神の国の王は、イエス・キリストです。神の前に正しいか、正しくないかを判断するのは、judgeするのは、裁きを下すのは、律法学者ではなく、私たちではなく、イエス様の方なのです。律法学者はこのことに気づいていません。
そして、この「あなたは、神の国から遠くない」と言われた律法学者が気づいていなかった第二のことは、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして愛すべき「唯一の主なる神」が、イエス・キリストご自身であるということです。
律法学者が気づいていなかった第三の点は、イエス・キリストを通して、神と和解しないかぎり、隣り人を自分のように愛するとは何かを知ることができないということです。要約すれば、イエス・キリストによらなければ神と和解することはできず、神との関係修復無しに、人との関係が回復されることもないと言うことです。
私は数日前、世界の聖公会の成長と衰退を扱っているある本の中で、大韓聖公会に関する報告を読んでいました。そこでは大韓聖公会の歴史についても触れられていました。皆さんは、大韓聖公会の歴史の中で、もっとも困難な時代がいつだったかご存知でしょうか?それは朝鮮半島が、大日本帝国の植民地とされたときです。
朝鮮半島のクリスチャンに最大の苦難をかしたのは、偶像崇拝に屈した日本の教会でした。日本人教会指導者たちは、朝鮮半島までのこのこ出かけて行き、朝鮮人のクリスチャンたちに対して、神社参拝を、つまり偶像崇拝を受け入れるようにと説得を試みます。
しかし2千人以上の朝鮮半島の教会指導者は、この説得を拒みます。朝鮮人の教会指導者の多くが投獄され、拷問を受け、50人が殉教します。神社参拝を偶像崇拝として拒否した宣教師たちは全員追放処分となり、朝鮮半島の聖公会は主教と宣教師を失い、代わりに日本人の司祭が送り込まれました。
日本人教会指導者たちは、文化は偶像崇拝の一形態に過ぎないことを見ぬけませんでした。その結果、文化の名の下に、偶像崇拝を受け入れたのです。天皇は日本文化の頂点であって、日本的キリスト教はこれを受容できるものでなければならない。そう主張したのです。
こうして、イエス・キリストは天皇に従属させられ、教会は国家の僕となり、偶像崇拝を受け入れた日本人教会指導者は、朝鮮半島のクリスチャンたちに偶像崇拝を受け入れさせるための、国家の道具とりました。
新しいイスラエルである教会にとっても、イスラエルの民に与えられた第一の戒めは、第一の戒めであり続けています。ですから、もう一度、この言葉に耳を傾けてください。
「『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』