11 Nov 2018 Proper 27: I列王 17.8-16; ヘブライ 9.24-28; マルコ 12.38-44
今朝の第一朗読に登場するエリヤは、アハブという人物が北イスラエルの王であったときの預言者です。アハブは紀元前875/4年から853年までのイスラエルの王でしたが、彼の治世は、イスラエルの歴史における、最も悪しき時代として記録され、そして民に記憶されていました。I列王記16:29-33は彼の治世についてこのように言っています。
オムリの子アハブは彼以前のだれよりも主の目に悪とされることを行なった。彼はネバトの子ヤロブアムの罪を繰り返すだけでは満足せず、シドン人の王エトバアルの娘イゼベルを妻に迎え、進んでバアルに仕え、これにひれ伏した。サマリアにさえバアルの神殿を建て、その中にバアルの祭壇を築いた。アハブはまたアシュラ像を造り、それまでのイスラエルのどの王にもまして、イスラエルの神、主の怒りを招くことを行なった。
アハブの妻、イゼベルの名は、文字通り、イスラエルの人々にとって悪の代名詞となりました。ヨハネの黙示録では、イザベルの名は教会を偶像崇拝の罪へ陥れる偽預言者として現れます。
イザベルは四百五十人のバアルの預言者と四百人のアシェラの預言者をイスラエルの宮廷に引き入れ、イスラエルの預言者を皆殺しにしようと企てます。イゼベルのもと、イスラエルの王室と民衆のほとんどは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神を捨てて、偶像に膝を屈めました。
エリヤに与えられている使命は、偶像崇拝に陥った民に、まことの神を示し、彼らをまことの神に立ち帰らせることです。エリヤは、イザベルと彼女がアバブの宮廷に引き入れた偶像に仕える850人の預言者に、悪の勢力に、たった一人で立ち向かう、孤独な戦いの中にいました。
エリヤが初めて北イスラエルの首都サマリヤでアハブと対峙した時、彼はイスラエルが干ばつに襲われること、さらに再び自分がアハブと対峙する時まで、その干ばつは終わらないことを預言します。果たしてエリヤの言葉の通り、イスラエルは3年に渡る干ばつに襲われます。この干ばつには、霊的な意味があります。
イスラエルが膝を屈めたバアルという偶像は、豊穣の神として崇められていました。しかしこの豊穣の神は、干ばつを前に何もなすことはできません。
他方、イスラエルのまことの神は、驚くべき方法でエリヤを守り、養います。神はイスラエルの首都サマリヤから、北に160キロも離れたサレプタまで旅をするようにとエリヤに命じます。そして、そこで一人のやもめによって、エリヤを守り、養うと言うのです。やもめたちは、普通、貧しい人々です。飢饉がやってくれば、真っ先に食べ物にありつけなくなる人々です。
イスラエルを襲った飢饉は、干ばつによるものです。そのような状況の時に、食料を求めてやもめのところへ行くようにという神の命令は、奇妙と言う他ありません。しかしエリヤは神の言葉の通りに、サレプタに向かいます。このサレプタは、異邦人の街です。この街の入り口近くで、エリヤは薪を拾い集める一人のやもめに声をかけ、まず水を求めます。
彼女はこの外国人の願いを聞き入れ、水を汲みに行こうとします。しかしエリヤは彼女を止めて、パンを一緒に求めます。するとこの異邦人のやもめは、イスラエルの神への信仰を告白して、自分の置かれている過酷な状況をエリヤに知らせてこう言います。
12 あなたの神、主は生きておられます。わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。
やもめの言葉を聞いたエリヤの返答は驚くべきものです。
13 恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。14なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで/壺の粉は尽きることなく/瓶の油はなくならない。
自分と息子にとって最後の食事となるパンを焼くための小麦粉と油しか無く、後は死を待つだけだと訴えるやもめに向かってエリヤは、まず自分のためにパン菓子を作って持って来るようにと命じます。ここで、さらに更に驚くべきことは、15節の言葉です。「15 やもめは行って、エリヤの言葉どおりにした。」
彼女は異邦人です。そうでありながら、エリヤが仕える神を信じ、そして神がエリヤを通して語っておられることを信じて、自分と息子が食べる最後のパンのための小麦粉と油を、神に献げたのです。なんという信仰でしょうか!
神がなされたこの小さな奇跡の業は、エリヤの信仰とやもめの信仰の間に成就した業です。神はエリヤの信仰とやもめの信仰の間に、あるいはその真っ只中に、豊かな恵みをもって働かれました。
ここに私たちは、神がどのように働かれるのかを見ます。神はこの世の力を求めるものを退けます。この世で力を求める者、すなわち金銭、財産、地位、名声、特権を求める者たちは偶像崇拝者です。今朝の福音書の中で、イエス様が批判している律法学者たちは、神の名を語りながら、神の栄光ではなく、自分の栄光を求める者たちです。神を隠れ蓑にした自己追求や自己実現は、偶像崇拝の一形態なのです。
イエス様と弟子たちがエルサレムに入ったのは、世界中に散っているユダヤ人たちが、過越の祭りのためにエルサレムに集まるときです。神殿の一番手前には「異邦人の庭」、その奥には「女性の庭」というのがあって、そこには礼拝者たちから献金を集めるための箱が置かれていました。
金持ちが献金箱に投げ入れる大金は、律法学者たちの衣や長い祈りと同じで、自分に注目と賞賛を集めるための手段です。しかし貧しいやもめは、自分がもっているたった二枚のレプトン銅貨を献げました。それは労働者の一日の賃金、1デナリオンの1/64のです。
多くの金持ちが大金を投げ入れる中で、彼女が献げた1クァドランスは誰の注目も引かなかったはずです。でもイエス様だけは、彼女が全てを献げたことを見ていました。ここで本当に問題になっているのは、献金の金額ではありません。今日の第一朗読でエリヤを養ったやもめ、そして二枚のレプトン銅貨を献げたやもめは、聖書が要求する信仰とは何かを私たちに教えています。
聖書の神は、私たちに、一部ではなく、すべてを献げることを求めているのです。イエス・キリストは、ご自分の弟子に、全てを献げて従うように求めています。子供でもわかる言い方をするなら、イエス様は、自分のために生き、そして自分のために死ねと言っています。
ですから、イエス様のために死ぬなんてことはまっぴらゴメンだけど、クリスチャンにはなりたいと言うとすれば、それは新約聖書が信仰をどう描いているかを全く理解していないということになります。
すでにお気付きの方もあると思いますが、先週の福音書朗読と、今週の福音書朗読の主題は同じです。なぜなら、全てを献げることは、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、神である主を愛することであり、古い自分に死んで、キリストの命に生きることだからです。
神は天地創造のその初めから、人を神の創造の業に協力するように招いておられ、さらにイエス・キリストが来られた後には、救いの業に協力するよう招いておられるのです。
孤独な戦いに疲れたエリヤは、神に向かってこう嘆きます。
わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。(I列王 19:14)
そのとき神はこう言ってエリヤを慰めます。「18わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」
私たちは誰も、一人では信仰の戦いを戦い抜くことはできません。戦友が必要です。そして主は常に、残りの民を備えていてくださいます。そしてキリストのために生きて、キリストのために死ぬことを願う者が、二人三人ともに集まり願い求めるなら、主がそこに共におられ、求めるものを与えてくださいます。
神はすでに、イエス・キリストを通して、すべてを私たちに与えようとしておられます。神が与えようとしておられる恵み、祝福、救いを豊かに受け取るために、握りしめているものを手放す勇気を、主が私たちに与えてくださいますように。