特定28 説教

JesusTempleNewJerusalem

18 Nov 2018 Proper 28: ダニエル 12:1-4a, 5-13; ヘブライ 10:31-39; マルコ 13:14-23

先週の金曜日、11月16日は聖マーガレットの記念日でした。聖マーガレット日に一番近い日曜日を創立記念礼拝として献げるということで、私たちは今日、この礼拝を創立記念の礼拝として献げています。聖書朗読は特定28主日の指定箇所からです。

今朝の福音書朗読がマルコの13章からであると気づいた時、私は思わず、頭を抱えそうになりました。マルコ13章はしばしば「小黙示録」と呼ばれる所で、もっとも解釈の難しい記事の一つです。

今朝、この説教の中でお話しできるのは、マルコ福音書13章全体の、ほんの小さな部分です。しかし、今朝、共に学ぶこの小さな「部分」は、創立記念礼拝に相応しい内容であると信じています。

イエス様と弟子たちは、マルコ福音書の11章で、すでにエルサレム入りしています。イエス様がエルサレムに入城する時、弟子たちは何を期待していたでしょうか?何が起こると考えていたでしょうか?

それは、イエス様がついに、自分はイスラエルの栄光を回復する王であると宣言し、そして王として人々に迎えられることです。では、なぜ、それはエルサレムでなければならないのでしょうか?それは、そこに神殿があるからです。神殿こそが、イスラエルの信仰と生活と政治、すなわちすべての中心でした。

ですからユダヤ人が待ち望んでいたメシアは、異教徒の支配下に置かれていたエルサレムを解放し、神殿をローマ軍の手から奪還する者でなければならなかったのです。だとすると、イスラエルを解放する王としてのメシアは、神殿当局者によって、「承認」されなければならない、ということになります。

ところが、エルサレムにイエス様が入城して直ちに明らかになるのは、イエス様と神殿当局者との対立であり、対決です。イエス様は神殿に入るなり、生贄となる動物を売り、神殿に献げるための特別な貨幣を扱う両替人たちを、神殿から叩き出します。一般に「宮清め」と呼ばれる出来事です。

これらの両替人や商人たちは、神殿当局者のお墨付きを得て、そこで商売をしていました。彼らを神殿から追放することは、神殿当局者の顔に泥を塗る行為であり、彼らの権威に対する明白な挑戦です。

イエス様の行動を目にした、あるいは耳にした神殿当局者たちはイエス様に詰め寄ります。「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか」と。
彼らがイエス様を拒否したことは明白です。事実、この出来事こそ、神殿当局者がイエス様の抹殺計画を立てる引き金となりました。

マルコの11章の15節から12章の最後までに記されている全ての出来事は、エルサレム神殿を舞台としていますが、13章の1節で、イエス様と弟子たちは神殿を後にして、神殿の東に位置するオリーブ山へ向かいます。

そして、神殿を後にする時、弟子たちがまったく予想していなかったことを、イエス様は語り始めます。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」(マルコ13:2)エルサレム神殿の崩壊を預言したのです。

今朝の福音書朗読のマルコ13章14節から23節は、3節から13章の終わりまで続く、オリーブ山でイエス様が行った預言の一部です。旧約聖書の預言者は皆、イスラエルの民の罪を告発し、立ち返りを迫り、そして迫り来る「かの日」の裁きを語ります。

イエス様はここで、旧約聖書の預言者の伝統に沿いながら、真の預言者として、誰も予想もせず、誰も受け入れることができないことを告げられました。

この時代のほとんどのユダヤ人にとって、神殿は神と人とが出会う最も神聖な場所であり、信仰の中心であり、礼拝の中心です。しかし、彼らが神と人とが出会うもっとも神聖な場と考えていた神殿が、その罪の故に、神によって滅ぼされる。イエス様はそう言っているのです。

「宮清め」と呼ばれている出来事は、実際には宮を清める行為ではありません。それは神ご自身が、神殿を罪に汚れたもの、役に立たない、不要なものとして、滅ぼすことを象徴する出来事なのです。

そして、すべての教会は、そしてこのマーガレット教会は、神が神殿を滅ぼされたからこそ存在しています。なぜなら、教会の信仰、イエス・キリストを信じる信仰とは、「私たちはもはや、目に見える神殿を必要としない」という信仰だからです。

使徒たちが宣べ伝えた福音によれば、神殿とそこで行われていたすべての祭儀は、やがて現れる実体の影に過ぎません。まことの神殿、唯一の大祭司にしてまことの過越の子羊が来られた後、私たちはもはや、目に見える神殿を必要としなくなったのです。

イエス様ご自身が神殿であることは、ヨハネが最も直接的に語り、明らかにしています。ヨハネ福音書では、イエス様が神殿から商人や両替人を叩き出した後、神殿当局者は「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言ってイエス様に迫ります。

そのときイエス様はこうお答えになりました。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」(Jn 2:19) それを聞いたユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言い返します。(Jn 2:20)そしてヨハネは、イエス様の言葉をこう説明します。「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。」(Jn 2:21)

イエス様は神殿の崩壊を預言しながら、こう警告されました。

憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。15 屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。16 畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。

神殿崩壊のプロセスは実際に、紀元後の66年から始まり、70年に憎むべき破壊者、すなわちローマ軍によって完全に滅ぼされました。イエス様の預言から、約40年後です。

イエス様の警告は、古い神殿に留まろうとする者たちは滅びてしまうと警告しています。しかし、古い神殿を捨てて、新しい神殿、まことの神殿であるイエス様のもとに逃れる者たちは救われるのです。

復活はイエス様がまことの神殿であることの保証でありしるしです。この世の神殿とその神殿に寄生して力を振るっていた者たちは、その罪の故に、神によって滅ぼされました。しかし、目に見える神殿を守るために、神殿当局者によって殺されたナザレのイエスは復活し、滅びることはありませんでした。

エルサレムがローマ軍に包囲され、神殿が滅ぼされた後、多くのクリスチャンは、イエス様の警告の通り、そこから逃げました。彼らは世界に散らされて行きました。そして彼らが散らされていったすべてのところに、新しい教会が生まれました。神と人とを仲介することのできる、唯一にしてまことの神殿が、彼らと共にあったからです。

神殿はもはや、パレスティナにあるのではありません。まことの神殿は、イエス・キリストを信じる者がいるところにあるのです。もし神が見える神殿に、エルサレムに縛られているのなら、神はこの松庵一丁目にはおられないということです。しかしまことの神殿は、キリスト・イエスを信じる者たちがいるすべてのところに存在します。

だから私たちはどこにいても、一人のまことの神を礼拝することができるのであり、そしてどこにいても、一つのキリストの体であることができるのです。エルサレムの神殿を打ち壊し、聖霊によってキリストの弟子が存在するすべてのところに共にいてくださる神を、再び拘束することなどできません。

マーガレット教会は、この建物でも、この場所ではありません。マーガレット教会は、主の弟子として兄弟姉妹です。今、ここに共におられるまことの神殿、イエス・キリストの内に、心からの感謝と賛美、そして祈りを献げしましょう。