降臨節前主日説教

Stir-up-Sunday

ダニエル 7.9-14; 黙示録 1.1-8; ヨハネ 18.31-37

今日は教会の暦によれば、一年の最後の主日です。来週の日曜日、12月2日からは advent、救い主イエス・キリストの降誕を待ち望む期間となります。

ところが、救い主の降誕を待ち望む期間に入ろうとしているのに、私たちが今朝読んだ福音書の箇所は、イエス様が大祭司、ファリサイ派の人々の陰謀に従って捕らえられ、そしてローマ総督、ポンテオ・ピラトのもとで尋問を受けている場面です。聖週の受苦日に読まれる朗読箇所です。

この奇妙な現象は、いわゆる「新しい伝統」の発明によって、教会の暦の中に引き入れられました。降臨節前主日は、新しい伝統によって取って代わられるまで、‘Stir-up Sunday’(奮起の日曜日)と呼ばれていました。その日の特祷はこのようになっていました。

主よ、善き業の実を豊かに結び、あなたから豊かな報いを受けるために、あなたを信じる者たちの意志を奮い立たせてください、私たちの主、イエス・キリストによって。アーメン。

そして福音書は、ヨハネ6章5節から14節、5千人の給食の箇所が読まれていました。一人の少年が献げた5つの大麦パンと2匹の魚を持って、イエス様は約5千人の男たちと、それに加えて多くの女性たちと子どもたちを養う奇跡の業を行われました。

特祷との繋がりは明らかです。私たち一人一人が献げる「善き業の豊かな実り」は、人の目には、取るに足らない、小さなものかもしれません。しかし、それは主が再び来られる時、「神の国の祝宴」の大きな報いとして返ってくる。教会の暦の一年を締めくくるに相応しい、終末論的テーマであり、救いの業の完成に私たちの目を向けさせるようになっています。

さらに、「主が再び来られる時に与えられる神の国の報い」は、教会をadventに向けて整えます。すなわち、主が再び来られる時に完成される神の国は、イエス様がこの世に最初に来られたときに始まりました。主の降誕を待つ季節に、私たちは、主が再び来られる時を待ちつつこの世を旅するために必要な、「忍耐」という徳を学ぶのです。

この三位一体後第25主日、 ‘Stir-up Sunday’(奮起の日曜日)として伝統的に守られてきたテーマは、1925年に、時の教皇ピオ十一世によってローマ教会で発明された、「王なるキリストの祝日」によって破壊されました。これは当初、10月最後の主日に置かれました。しかし、これが1970年に、どういうわけか、三位一体後第25主日、降臨節前主日に移されました。

「王なるキリスト」は1990年から毎年、Church of Englandの暦に登場するようになり、2000年の9月に出版されたCommon Worshipをもって、ほぼ公式な位置を得ることになりました。

私たちが現在用いている日本聖公会の聖書日課は、コウモリのような作りになっています。この主日のタイトルは「降臨節前主日」のままです。ところが特祷と朗読箇所は、「王なるキリスト」のテーマに従って完全に変わっています。

そもそも、「王なるキリスト」は、昇天日のテーマです。「王なるキリスト」という新しい祝日の発明は、昇天日の意義を見えなくし、‘Stir-up Sunday’(奮起の日曜日)によって表されていた、教会の暦の終末論的性格を破壊してしまいました。失われた‘Stir-up Sunday’(奮起の日曜日)が回復されることを、心から願います。

しかし、これだけで説教を終わるわけにもいきません。今日の福音書朗読の中から、主の降誕を待ち望み、主が再び来られる時に向けて忍耐を学ぶ期間に入るための備えとなる要素に目を向けたいと思います。

ピラトは普段、エルサレムから北に112キロほど離れた地中海沿岸の都市、カエサリアの総督府に駐留していました。しかし過越の祭の期間、ピラトは6千人の軍団を引き連れてエルサレムに駐留していました。

過越の祭の期間は、ローマ帝国の従属下に置かれているユダヤ人反乱を起こす可能性が、一気に高まります。ユダヤ人の間で、ローマに対する反乱が起きなら、ただちにそれを鎮圧するために、ピラトはローマ軍の部隊と共に、エルサレムに滞在していたわけです。

ピラトがイエス様に、「お前がユダヤ人の王なのか」と言っているとき、彼はイスラエルという奇妙な民族と、その民族の王と自称しているとして引き渡されたイエス様を嘲笑しているのです。ピラトは、ユダヤ人の反乱運動を幾度となく見ていますから、反乱運動の指導者が、どんなタイプの人間かも知っています。しかし、今回、自分の前に引き渡された男は、反ローマの反乱運動を指揮するようなタイプには見えません。

この男が、なぜ引き渡されて、自分の前に立っているのかわからないので、ピラトはイエス様にこう聞いているのです。「お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」するとイエス様はこうお答えになります。

わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。

ピラトに対するイエス様の答えが何を意味しているのか。それを理解するための鍵を、私たちはルカによる福音書4章5節から8節の中に見い出すことができます。そこにはこうあります。

5 更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。6 そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。7 だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」8 イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。

皆さん、悪魔の、この言葉に注意してください。「『この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。』」イエス様は、この悪魔が語っていることを否定しません。しかし、悪魔に膝を屈めることを拒否します。

これを頭に入れて、ピラトに対する、イエス様の答えを、もう一度聞いてください。「もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。」

つまり、この世の全ての国は、暴力によって始まり、そして暴力によって維持されているのです。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ」。この悪魔の言葉は真実です。悪魔の前に膝を屈めること無しに、この世のいかなる国においても、支配者の地位に登ることはできません。

しかし、イエス・キリストの国は、神の御子が、悪魔に膝を屈めたこの世の権力者によって殺され、そこから復活されることによって始まった王国です。教会が誕生して最初の二世紀半、激しい迫害に晒されていながら、クリスチャンが武力によって抵抗することを拒否したのは、彼らが、この世の国に属していないことを知っていたからです。

彼らは、キリストが創始された国の国民として選ばれた故に、自衛のための暴力さえも放棄したのです。

私たちは来週の日曜日から、主の降誕を待ち望む期間、主が再び来られる時まで、神の国の民としてこの世で歩むための忍耐を学ぶときに入ります。私たちの王は平和の君であることを、さらに深く学ぶときとなりますように。