20 Apr 2019 Holy Saturday
私はこの夕べの礼拝を、受苦日の十字架の苦しみと、復活の喜びの間の時間と位置付けてお話をさせていただきます。
人生は往々にして、復活が見えない聖土曜日のようなものです。それは、「死と復活の間の時間」であり、「恐れと期待との間の時間」であり、そして「痛みと慰めとの間の時間」です。
教会の暦では、聖土曜日は年に一度しかやって来ません。しかし人生においてはそうではありません。私たちの人生の多くは、聖土曜日の「間の時」です。だからこそ、聖土曜日の礼拝を飛び越すことはできても、誰も人生における聖土曜日の現実を飛び越すことはできません。
聖土曜日は形を変えて私たちのもとにやって来ますが、それはいつも死を、終わりを伴っています。イエスの死、愛する者の死、信頼関係の死、夢や希望の死などです。
「娘さんが、横断歩道を渡っていたところ、左折して来たトラックの後輪に巻き込まれて亡くなりました。」
「パーキンソン病です。これから少しずつ、体が動かなくなっていきます。」
「契約社員として長く働いてもらいましたが、残念ながら次の契約更新はありません。」
「あなたと友達でいると、私までハブにされるから、もう私に話しかけないでくれる。」
愛する者の死の後、絶望をもたらす衝撃的な言葉の後、私たちは暗闇の中に落ち、次に何がやってくるのか、次に何をするべきかも分からず、言葉を失い、途方に暮れます。
ガンの治療がうまくいくのか;引きこもりになった子どもがいつ社会に復帰するのか;すぐに新しい仕事が見つかるのか;壊れてしまった信頼関係が修復するのか;愛する家族、親しい友を失った後、どうやって行きていけばいいのか;何もわかりません。
私は中学生時代、人間不信から、不登校になった時期があります。昨日まで行っていた学校に行かないという最初の決断には、ある種の勇気と決断が必要で、それは衝撃的な出来事でもあります。
しかし学校に行かない時間が1ヶ月、2ヶ月、そして3ヶ月と積み重なるに従って、学校に行かないことが日常になります。それに伴って、生活のリズムが変わります。同じ学校の生徒たちと会うことを恐れ、人目をはばかり、昼間は外に出られなくなります。外出するのは夜だけです。夜が自分の活動時間になると、必然的に昼夜が逆転します。外出し、帰って来てテレビを見、ラジオを聴き、漫画を読み、そして朝の4時とか5時、遅い時は6時過ぎに布団に入り、眠りにつきます。起きるのはもちろん、昼過ぎです。不思議なことに、昼夜逆転は自動的に起こりますが、そこから朝型への移行は、絶対に自動的には起こりません。
学校に行かず、昼夜逆転が元に戻らない時間が長くなればなるほど、「元に戻れないかもしれない」という恐怖感も大きくなります。昼間に人に会うことを考えただけでも恐ろしくなるのですから、再び学校に戻るなんてことは到底不可能に思えます。暗い闇の中に閉ざされ、次に何をするべきなのか分からず、未来がどうなるのかと考えると、そこには絶望しかありません。
闇の中から脱出しようと、どんなにもがいても、何をしても、何の助けにもならず、更に深い闇の中に沈んでゆきました。毎日、死を感じ、自分の人生はすでに終わっていると思っていました。私の人生に訪れた、一つの聖土曜日でした。それはいわば、自分が葬られた墓の前に、呆然と座り込んでいるようなものです。
私は、自分がどのようにして、聖土曜日の暗闇の中から、墓の中から這い出して来たのか、よくわかりません。多分、自分で出て来たのではないんだと思います。私はただ、その時はまだ自分が信じているとは思っていなかった神の前で、「もし神様がいるなら、ここから抜け出させてください」、そううめき続けただけです。
私はいつ、自分の暗闇の中に光が点り始めたのか知りません。しかし私が気づかぬうちに、闇の中に光が昇り、その光は、私を墓の外へと導き出してくれました。
人生の中にやって来る聖土曜日を生き抜くことは、決して簡単なことではありません。私たちは、悲しみにすぐに取って代わることのできる喜びを求めます。しかしイエス様は、苦しみに「取って代わる」喜びを与えるのではなく、むしろ、私たちの悲しみを、喜びに変えようとされます。このプロセスは、何ヶ月も、何年も、場合によっては生涯に渡って続きます。
聖土曜日は私たちを墓へと呼び出します。それ以外、どこに行きようがあるでしょうか?聖土曜日に語るべき言葉はほとんどありません。愛する者の死を、夢や希望の死を経験した後、一体、何を言えばいいのでしょうか?
キリストの勝利は死と無関係なのではありません。十字架の主の勝利は、死の中で勝ち取られました。キリストは死をもって死を討ち滅ぼし、墓の中にいる者たちに命を与えられます。墓は母胎となり、死が新たな命を生み出します。
きっと、私たちの人生のどこかで、信仰が何の役にも立たないと思えるような、聖土曜日がやって来ます。信仰によってなんとかしようという思いは、空回りし、暗闇が深くなるばかりで、自分が信仰を持っていることさえも信じられなくなるときがあるでしょう。
それは、イエス様の最初の弟子たちが直面した聖土曜日です。彼らは絶望の後に、イエス様が墓に葬られた後に、何がやって来るのか知りませんでした。何の期待もできず、祈ることもできず、ただ恐れおののき、暗闇の中にいました。
しかしその暗闇の中に、復活のキリストの光が昇りました。それは彼らが灯したものではありません。その光は、恐れおののく弟子たちのもとにやって来て、彼らの闇を照らしました。
人生の聖土曜日の中に置かれたなら、ただ沈黙に身を委ね、待ってください。静まり、思い起こし、思い巡らしてください。そして自分のうめきを、叫びを、神の前に注ぎ出てください。
何も変わっていないように思えるそのとき、あなたを愛しておられる主が働いておられます。あなたの暗闇の只中に、復活のキリストの光が必ず昇ります。