降臨節第一主日説教

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2018年12月2日 ゼカリア 14.4-9; テサロニケ13:9-13; ルカ21.25-31

皆さん、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。 降臨節の第一主日、私たちはこの日から、新しい一年の歩みを始めます。

12月25日のクリスマスに一番近い日曜日から数えて、4つ前の日曜日から始まる期間はAdventと呼ばれます。このAdvent、降臨節というのは、非常に不思議な季節です。Adventはクリスマスへ、主の降誕の日に向けた準備の期間です。

しかし、もしAdventという季節が、期待を膨らませて、主イエス・キリストの誕生を待ち望むときだと考えると、何かがおかしいことになります。なぜなら、救い主、イエス・キリストは、2千年前、すでに世に来られたからです。

ではこのAdventは、一体どのような意味で、期待し、待ち望む期間なのでしょうか?その答えは、今朝の福音書朗読の箇所を通して示されています。

今日の福音書朗読の箇所は、3週間前、11月18日の日曜日に読まれたマルコ福音書13章1節から37節の並行箇所です。

ルカ福音書の今回の朗読箇所は25節から31節で切られていますが、実際には7節から36節までが一つのまとまりになっています。しかし7節から36節の一つのまとまりの中には、2つの中心があります。一つは7節から24節までのエルサレム神殿崩壊の預言、もう一つは25節から36節までのキリストの再臨に向けて準備をせよという警告です。

私たちの今日の朗読箇所は、この第二の中心、主が再び来られる時に備えよという警告の箇所です。いつ主が再び来られたとしても、教会は傷のないキリストの花嫁として、主を迎える準備をしていなければならない。Adventはこのことを学ぶ時なのです。
それは、待つことを学ぶ時であり、待つために私たちが身につけるべき徳、忍耐を学ぶ時です。

では、主が再び来られる時に備えて、忍耐を持って待つというテーマは、なぜイエス・キリストの降誕と結び付けられているのでしょうか?

それは、イスラエルの民が解放を待ち望んでいたように、キリストの花嫁である教会も、解放の時を待ち望んでいるからです。より厳密に言えば、すでにイエス・キリストによって約束され、その復活によって保証された解放の完成を待ち望んでいるからです。

貧しい者、虐げられている者、抑圧されている者、搾取されている者、いじめられている者、夫の暴力に苦しむ女性、親から虐待を受ける子ども。彼らが共通して待ち望んでいるものは何でしょうか?
もちろん彼らは、虐げ、抑圧、搾取、いじめ、暴力、虐待からの解放を待ち望んでいます。しかし解放を待ち望む者たちが同時に願い求めているのは正義が成されることです。 虐げ、抑圧、搾取、いじめ、暴力、虐待を加える者たちが裁かれることです。

正義と裁きが切り離されることはあり得ません。裁きがないところに正義はなく、正しい裁きがないから不正なのです。 そして正義と裁きへの渇望は、常に、虐げ、抑圧、搾取、いじめ、暴力、虐待を加える者たちが消え去ること、滅ぼされることを求めます

もしこれが嘘だと思うなら、なぜ暴君が繁栄し、連続レイプ犯がまんまと逃げおおせるドラマや映画や物語に、私たちが嫌悪感を抱くのか、考えてみてください。

現実には、私たちは悪が繁栄し、残虐な支配者がこの世の富と平和を享受し、ごく一部の悪人の繁栄と平和のために、多くの人々が犠牲とされている世界に住んでいます。しかし、そのような世界の現実を描くドラマや映画は、誰に喜びをもたらすこともありません。それは絶望をもたらすだけです。

紀元前168年以降、イスラエルは常に、異教徒たちによって攻撃され、圧迫され、信仰の中心であるエルサレム神殿も蹂躙されてきました。イエス様がお生まれになった時代、イスラエルはローマ帝国の支配下に置かれていました。

ローマ軍の軍人による、威圧、脅迫、略奪行為はユダヤ人の生活の日常的光景であり、重い税金を課せられ、そして信仰の中心であるエルサレムの神殿さえも、ローマ軍の監視下に置かれていました。
イスラエルの民は解放を待ち望んでいました。正義がなされることを待ち望んでいました。そして正義とは、マリヤの賛歌が歌い上げているように、この世の力ある者たち、すなわちローマ帝国が、神によって滅ぼされることでした。

そしてイエス・キリストは、事実、イスラエルの民を解放し、正義を実現し、裁きを行う王として来られたのです。イエス・キリストは、すでに最後の敵を、死を打ち滅ぼしました。 すでに死が滅ぼされたということは、悪はすでに牙を抜かれたということです。

しかしイエス・キリストを通して成就された解放、正義、そして裁きは、イスラエルの人々が考えていた、あるいは期待していたのとはまったく違う方法で実現されました。

まことの王、イエス・キリストは、悪によって悪に立ち向かい、暴力をもって暴力を滅ぼす道を退けました。しかしイスラエルの多くの民は、十字架の死をもって民を解放し、正義を実現し、裁きを行う、この遠回りの道を受け入れるために必要な、忍耐を持ち合わせてはいませんでした。

イエス・キリストはすでに悪に打ち勝ち、死を滅ぼされたのに、私たちは未だ、世界に悪が蔓延るのを日々目の当たりにしています。そして私たちは、古い道に帰る誘惑に陥ります。 なわち、軍事力によって、核の抑止力によって、敵よりもさらに強力な兵器を開発することによって、「平和」を作ろうとする道です。

しかしイエス・キリストをまことの王、平和の君、救い主と信じる者たちは、互いを愛し、互いに仕える遠回りな道を通して、神の国の平和をこの世に現すことを通して、イエス・キリストが再び来られ、神の国が完成されるときに備えるようにと招かれているのです。

そして、神の国が完成される時、その民として迎えられるのは、忍耐をもって、死をもって死を滅ぼした主に従う者たちなのです。

残念ながら、Adventは教会がもっとも忙しくなる季節となってしまいました。しかし是非、主と共にいるための時間、平和の君と共に過ごす時間を、敢えて取ってください。

私たちは平和の君、イエス・キリストと共に過ごし、この平和の君に聞き従うこと無しには、忍耐と喜びをもって、神の国の平和をこの世に現す者となることはできないのですから。

どうぞ静まって祈り、マタイ、マルコ、ルカ、そしてヨハネの福音書に、じっくり耳を傾け、主が何を語り、そしてどのようにして悪の力を打ち破り救いの道を備えられたのかを学んでください。
そして、このAdventのときが、平和の君を迎える、よき訓練と備えのときとなりますように。

アーメン