





ミカエル5.1-3;ヘブライ10. 5-10; ルカ1.39-55
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初代教会が生まれたローマ帝国においては、「良きもの」が女性から出るということは、まったく考えられていませんでした。
これはもちろん、私がそう思っているということではありません。私は今までも、そして今も、素晴らしい女性たちに支えられ、女性たちが生み出す良きものによって祝福されてきました。
しかしローマ帝国の価値観の中では、「良きもの」は常に、男と結び付けられていました。そのことは言語にも現れています。
例えば、英語のvirtueという言葉は、日本語で「徳」と訳されます。このvirtueの語源はラテン語のvirtusです。ラテン語のVirは「男」で、virtusというのは「男らしさ」のことです。つまり徳、virtueは「男らしさ」に直結しているわけです。
さらに興味深いことに、ローマの「伝統的価値観」の要、あるいは他の徳の土台を成すprudence(実践的知恵)は、戦争を勝利に導くための戦略的知恵に結びついています。
現代に至るまで、戦争は男の世界であり、軍事指導者は常に男でした。そして「良きもの」は、戦争の勝利に結ぶつけられているのでした。
しばしば、新約聖書は家父長的で男尊女卑だという批判を耳にすることがあります。しかし、新約聖書は家父長的で男尊女卑だという先入観をもって新約聖書に向かうなら、私たちは、まさに今日の福音書に描かれているような、教会の中で女性たちが果たした革命的役割に対して、目を閉ざすことになります。
今朝の福音書朗読箇所における二人の主人公、マリアとエリサベトは、二人とも女性です。そして神が世界を再創造し、世界を救うご計画の中で、この二人の女性は決定的な役割を果たします。
さらに、私たちは、全人類は、神の救いの計画を、マリアとエリサベトから初めて聞かされるのです。誰も知らなかった神の偉大な計画を、最初に告知するのは、この二人の女性なのです。
イエスの母マリアは、クリスマスの度に、一心に注目を集めますが、今日はむしろ、あまり注目を浴びることのないエリサべとに焦点を当てたちと思います。
エリサベトの夫のザカリアは祭司です。イスラエルの信仰の権威であり、専門家であり、神の計画を高らかに宣言する役割に相応しい、誰もがそう思うような人物です。
ところが信仰の指導者であるはずの祭司ザカリアは、神が語ったことを信じなかったが故に、罰せられ、一切話すことができなくなりました。そのため彼は、神がエリサベトの上に成された驚くべき御業、祝福、そして神の救いの計画の最初の告知者となるという特権を失いました。
ルカ1章45節で、エリサベトはこう言っています。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
実は残念なことに、この日本語の翻訳からは、エリサベトの言葉に込められた小さな皮肉を読み取ることができません。ギリシア語から直訳すると、エリサベトの発言はこうなります。
「主によって彼女に語られたことは成就すると信じる女は幸いだ。」
自分の夫、祭司でありイスラエルの信仰における権威者の一人と目されるザカリアは、ガブリエルを通して神が語られた計画を信じませんでした。男は信じなかったのです。
ところが、マリアは信じました。誰一人、マリアを通して、「良きものが来る」、神の救いの御業が、世界の再創造の業が成されるなどと、期待してはいませんでした。しかし、女、マリアは、ガブリエルを通して告げられた神の計画を信じ、しかも自分の人生に嵐をもたらすような変化を伴うその計画を、自分の身に受け入れたのです。
しかし神の救いの計画を聞き、自分を通してその救いの御業が実現されることを受け入れたのは、マリアだけではありませんでした。
エリサベトも、神の救いの計画の一部となることを受け入れたのです。しかも、それは、人間的に言えば、決して受け入れやすい役割ではありませんでした。
先ほどのルカ1章45節は、マリアについて特別に語られている言葉です。それは、神の言葉を聞いて信じるすべての者について語っているのではありません。
神の再創造の業、救いの業について聞き、それを信じ、そして神のひとり子の母という唯一無二の役割をその身に引き受け、最も祝福された女性となったマリアにしかあてはまらない、祝福の言葉なのです。
さらにエリサベトはこうも言っています。
42「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。43 わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。44 あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。」
ここでエリサベトは、自分の子が、マリアの胎にやどる子のために、その道備へをするために仕える使命を担っていることを、ねたみもひがみも無く認めています。
さらに驚くべきことは、エリサベトがここで、聖霊に満たされて、「イエスは主である」という教会の信仰を告白していることです。
エリサベトは、マリアの胎の子のことを、「わたしの主」と呼んでいます。
新約聖書というテキストの最も驚くべき特徴は、イスラエルの信仰において、世界を創造し、今もその世界を統べ治める神についてしか語り得ないことを、ナザレのイエスについて語っているという点です。
こうして新約聖書というテキストは、教会がナザレのイエスを神として崇め、賛美し、そして祈りを献げていることを明確に示しているのです。
エリサベトが、マリアの胎に宿る子のことを「わたしの主」と呼ぶ時、彼女は、イエス様の弟子たちにとっては、イエス様が十字架にかかり、死んで葬られ、三日目に甦られた後にようやく明らかにった信仰を、偉大な使徒たちに先立って、告白しているのです。
エリサベトは、マリアが担った特別な役割を担うこともなく、マリアが受けた特別な祝福を受けることもありませんでした。しかし彼女は、自分が神の救いの計画の働きを担うことを喜び、彼女の主、イエス・キリストを証しすることを喜びました。
今日、この礼拝の中で、J.Tさんの洗礼式が行われようとしています。J.Tさんが洗礼に導かれるまでには、多くの人の「道備へ」の働きがありました。日曜学校、ユース聖餐式、ひつじカフェもその働きの一端を担いました。
しかし中でも、二人の女性の働きは、特別なものがありました。Jさんをキリストのもとへ導く道備へのために、大きな役割を果たした最も重要な女性は、なんと言っても、T.Tさん、Jさんの伴侶です。
Tさんが教会に来るようになり、洗礼を受けようとしていた頃、Jさんはそれを快く思ってはいませんでした。それでも、Tさんが洗礼を受け、そしてクリスチャンとして歩み始めた姿を見たJさんは、Tさんが本気でイエス・キリストとともに歩もうとしている、その覚悟を見ました。
Tさんの日曜学校における奉仕が、Jさんと教会との橋渡しとなりました。
そして、日曜学校の教師であり、ユース聖餐式の実質的なリーダーをしてくださっている一人の女性の「言葉」が、Jさんが洗礼の決意をする決定打となりました。
それは、「ユースのメンバーがJくんの名親になって、洗礼を受けて、ユース聖餐式で一緒に陪餐を受けられるようになったら、みんな喜ぶよ~」という言葉でした。
その言葉の通り、今日、Jさんの名親として大役を務めるのは、M.Oさん、M.Hさん、T.Tさんです。
彼女の一言が、今日、この日に向けて、Jさんが一歩を踏み出すための道備へとなりました。
私たちは間も無く、主の降誕の喜びを祝う日を迎えようとしています。しかし、今日の焦点は「道備へ」をすることにあります。
誰もが、誰かの道備へを通して、教会に導かれ、キリスト・イエスに出会います。そして洗礼を受け、神の家族に加えられ、イエス・キリストの弟子として歩み始めた者は皆、まだキリストに出会っていない人に対する、道備への役割をも与えられています。
クリスマスを迎えるにあたり、私たちが改めて、与えられた道備へ役割を果たすことができるよう、共に祈りたいと思います。
そしてどうぞ祈りをもって、24日、そして25日、家族を、友人を、知人を、共に主の降誕を祝う礼拝にお招きください。