降誕後第一主日説教

イザヤ61:10 – 62:3;ガラテヤ3:23 – 4:7;ヨハネ1:1-18 

今朝の福音書朗読で読まれたヨハネ福音書1章1節から18節は、ヨハネ福音書全体の序文であると同時に、ヨハネ福音書全体のまとめでもあります。1章1節から18節には、非常に圧縮された形で、ヨハネがその福音書の全体を通して語ろうとしていることが示されているのです。残念ながら、たった1回の説教で、ヨハネ福音書全体の序文の深みにまで分け入ることはできません。

ご存知のように、新約聖書の中にはマタイ、マルコ、ルカ、そして今日のヨハネと、4つの福音書があるわけですが、18世紀以降、ヨハネの福音書は聖書学者たちによってもっとも不当な扱いを受け、そして過小評価されてきた福音書でもあります。

例えば、Rudolf Bultmanという人物は、20世紀の新約聖書学に最も大きな影響力を及ぼした聖書学者ですが、彼は、ヨハネ福音書はグノーシス的福音書であるとの主張を展開しました。

グノーシス主義として括られる思想・宗教運動は決して一枚岩ではありませんでした。しかし色々なバージョンのグノーシス運動がありながらも、それらはすべて二元論的世界観を共通の土台としていました。二元論的世界観というのは何かと言いますと、非常に大雑把な言い方をすれば、世界を物質と精神とに分離して、物質は悪であり、精神は善であると見なす世界観のことです。

そして、今日に至るまで、多くの聖書学者たちが、全く不当に、ヨハネ福音書をキリスト教版のグノーシス主義だと主張してきました。しかしヨハネ福音書がキリスト教版グノーシス主義だと主張する人々が実際にしたことは、ヨハネ福音書のテキストからは決して導き出しえない、自分たちの先入観を、テキストの中に読み込むことでした。

ヨハネ福音書の序文には、イスラエルの信仰における二つの伝統がこだましています。それは神による万物の創造という信仰と、知恵文学の伝統です。

1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2 この言は、初めに神と共にあった。3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。

ここには創世記1章に記された、神の天地創造の業が響いています。

そしてもう一つ、ヨハネが福音書を書く時に意識していたのは、ユダヤ教の知恵文学の伝統です。イスラエルの信仰の中で、知恵文学というジャンルは、ほとんど無制限の広がりを持つようになりました。

旧約聖書外典のシラ書は知恵文学の一つに数えられますが、その中で、知恵は「他のすべてのものに先立って造られ、その悟る力も、永遠の昔から存在している」言われます。そしてエノク書と言われる書物の中では、知恵は擬人化され、いわば神の外に実体を持つ存在として描かれています。この擬人化された知恵は、神を賛美する代わりに自らを賛美し、雲の柱の間に王座を据えると自ら宣言します。

この擬人化され、自己賛美にふける知恵は、イスラエルの民の内にも被造物の間にも住むべきところが見つからず、天に帰ってしまいます。すると知恵に代わって「不正」が自分の家を出て、被造物の間にあまねく住まうようになったと語られます。

つまりエノク書によれば、被造物は不正によって支配された悪の世界なのです。これはグノーシス主義の世界観と重なります。被造物は、神に見捨てられ、救いのない、悪しき世界でしかないというわけです。それに対して、ヨハネ福音書は、グノーシスの世界観や救済観に真っ向から対立します。

エノク書にとってもグノーシス主義者にとっても、被造物は悪であり、世界に救いはありません。グノーシス主義においては、物質は悪であり、私たちの体も悪であり、被造物そのものが悪なのです。

しかしヨハネは、私たちに、創世記に記された神の天地創造の業を思い起こさせながら、神はご自分がお造りになった被造物を見捨ててはおられないことを示します。確かに、すべての造られたものは、悪によって損なわれ、罪によって歪んでおり、あるべき姿を失い、闇の中にあります。

しかし創世記1章において、被造物はすべて良きものとして造られたのであって、悪ではありません。この区別は極めて重要です。エノク書において擬人化され、自己賛美する知恵は、被造物の世界に住処を見出せず、被造物を見捨てて天に帰ります。

それに対して、ヨハネ福音書に示される「言」は、闇の中にある被造物を、世を照らす光として、闇の中に降って来ます。そしてこの光は、闇の中にいる人々を照らします。

さらに、エノク書に描かれる知恵は、あくまでも神に創造された被造物に過ぎません。知恵は創造主、造り主ではありません。それに対して、ヨハネ福音書の「言」は知恵ではありません。つまり、被造物ではありません。言は創造主であり、そして神なのです。そしてヨハネ福音書の反グノーシス的性格は、次の1節によって完全に明らかになります。

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(14)

創造主であり、神であられる、神のひとり子が、肉を取って、体を取って、わたしたちの間に、人間の間に住まわれた。グノーシス主義者は、口が裂けてもこんなことは言いません。繰り返しますが、グノーシス主義において、物質は悪であり、体は悪です。善なる神が、肉を取るなどということは、グノーシス主義者にとっては考え難いことであり、そんな話は愚の骨頂です。

しかし世界を造られたまことの神は、物質的世界を憎むことも無ければ、私たちの命がやどる体を否定することもありません。むしろ創造主なる神様は、闇の中に置かれた物質的世界を造り直し、そして私たちの「死すべき体」を贖って「朽ちることのない体」、「復活の体」を与えるために、そのひとり子に肉を取らせ、この世に送られたのです。

ここまで来れば、「偉大な聖書学者」たちが声高に叫んだ、ヨハネ福音書はキリスト教版グノーシス主義だという主張は、ヨハネが語っていることを否定し、あるいは捻じ曲げない限りなし得ない主張であることが明らかになります。

私たちはクリスマスに、世界を造り直し、滅ぶべき私たちの体を贖うまことの光の到来を覚え、喜び祝いました。この朝、この光が私たちに何をしてくださり、何を与えてくださる方なのか、再確認したいと思います。

12 言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。