降誕日第一聖餐式説教

イザヤ9:1-3,5-6;ローマ1:1-7;マタイ1:18-25

皆さん、クリスマスおめでとうございます。

今日、17時からは、9 Lessons and Carolsという礼拝がこの聖堂で持たれました。実は、少々細かいことをお話しすれば、9 Lessons and Carolsという礼拝は、まだクリスマスの礼拝ではありません。クリスマスの最初の礼拝は、この第一聖餐式です。

ここで私たちは、世を照らすまことの光、イエス・キリストが来られた喜びに再び満たされて、主が再び来られるときを待ち望みつつ歩む決意を新たにします。

私は普段、説教の中で、自分の個人的な話をすることはあまりありません。しかし、比較的規模の小さい、このクリスマス第一聖餐式の説教だけは、私の人生の物語を通して、まことの光、イエス・キリストが輝くこと願いつつ、闇の中にいた自分がどのようにしてまことの光に出会ったのか、皆さんと分かち合う機会にさせていただきたいと思っています。

誰の人生もそうであるように、私の人生の物語は、私の父と母の人生の物語の一部として始まりました。そして、残念ながら、私の人生の物語は、私の母のライフ・ストーリーが暗転するところで始まりました。

母は35歳で結婚し、夫となった男性には、前妻との間に生まれた二人の娘と、一人の息子がいました。そして、1971年12月12日に東京都稲城市で、私は母渡辺てる子と父渡辺なにがしの間に生まれました。

このとき母は36歳で、私には腹違いの姉二人と、腹違いの兄が一人いたことになります。しかし母は、私が生まれて間もなく、最初の夫と離婚したので、私には自分の兄弟に関する記憶はまったくありません。

母は、離婚後間もなく、別の男性と再婚しましたが、二度目の結婚生活もうまくいきませんでした。私が6歳のとき、母は二度目の離婚をし、いつ倒壊してもおかしくないほど古くて汚いアパートで、母と私の二人だけでの生活が始まりました。

ここから、母のライフ・ストーリーは、さらに深い闇の中に落ちてゆきます。それは同時に、私の人生の物語が深い闇に閉ざされてゆくことをも意味しました。

母は勉強好きで、中学校の成績も非常に良かったようです。しかし、彼女の両親は女の子に教育を受けさせることに何の意味も見出さない人たちだったので、母は高校に進学することを許されませんでした。

教育を受けられなかった母がありつける仕事は、いわゆる最低賃金の仕事ばかりで、二人の元夫からは養育費の支援すらありませんでした。時は高度経済成長期ですが、私たち親子にとっては何の関係もない話でした。

私が小学校の4年生の頃、母は過労で倒れて入院し、それを境に、母は精神的にも崩壊します。家から一歩も出なくなり、誰とも話をしなくなり、今で言う引きこもりとなって、親を止めました。

それ以降、私は自分で食べるものは自分で作り、洗濯をし、買い物をし、役所の手続きも親に代わって行うようになりました。

生きるために必要なことをするのは、それほど苦にはなりませんでしたが、親をやめてしまった親が目の前にいることは、大きな重荷でした。自分が面倒を見てもらう代わりに、私が彼女の面倒を見なければならない状況を、どう受け入れればよいのかわかりませんでした。しかし私の人生が絶望という闇の中に落ちたのは、自分と母の存在そのものが、社会から、人々から疎まれていることに気づいたときでした。

母が心を病んだ後、周囲の大人から、「あの狂った母親をどうにかしろ」という要求が、私に向けられるようになりました。世間が、私と母が消えていなくなることを望んでいることは明らかでした。

自分の存在は、いわば不法投棄されたゴミのように無価値で、自分がこの世からいなくなって清々する人間はいるにしろ、誰も悲しみはしない。そう感じていたのは私だけではありませんでした。母もそのことに気づいていて、彼女は度々、親子心中を考えていました。

小学校を卒業して中学生となり、普通であれば高校進学とか、自分の将来について考える時期に、私の前に広がっていたのは、自分の人生に将来などというものはないという現実でした。

中学3年のとき、私は無意味な自分の人生を閉じる、一番簡単で楽な方法を探していました。人生に絶望し、そこからの解放を求めていた頃の私は、自覚的無神論者でした。不条理と悪に満ちたこの世界に、神など存在しない、そう考えていました。

不幸なことに、私は小学校時代に、教会の日曜学校に行くことを、母親から強制されていました。日曜学校では、聞きたくもない聖書の話を散々聞かされました。ところが、自分の無意味な人生をどう閉じるかと考えていたとき、その聖書の話が、次々と心の中に舞い戻ってきました。

中学3年の夏休みのある日、説明もつかない出来事が次々と重なって、私は母に強制的に行かされていた日曜学校に、再び足を運ぶことになりました。そこで、当時まだ大学生で、日曜学校のたった一人の男性教師だった、Kさんとの出会いがありました。

この時から、日曜の午後はほぼ毎週、Kさんと一対一の求道コースとなりました。私は彼を通して、まことの光、イエス・キリストのもとへと導かれました。

その年のアドベントの頃、私は、まことの光を自分の闇の中に迎えるか、あるいは拒否して闇の中で滅ぶかの決断の前に立たされました。世界を創造し、そして私に命を与えた神が存在するなら、自分の人生にも意味があるかもしれない。

私にとっては、あのとき、世の光、イエス・キリストを受け入れることなしに、無意味な人生を続けるという道はあり得ませんでした。私はこの光を、自分の闇の中に迎え入れ、生き続ける可能性に賭けました。

その時から今日まで、私はこの光に導かれ、ときには躓き、失敗を繰り返しながらも、イエス・キリストと共に旅をしてきました。

まことの光に導かれて歩むことは、全く波風の立たない平穏な海を、自分の定めた目的地に向かって航海するようなものではありません。それはむしろ、荒波の中を、変わり続ける風に翻弄されながら、目的地を目指す航海のようなものです。しかしそれは、大きな喜びと、無限の祝福に満ちた航海です。

私の人生について言えば、母が心の病から回復することはありませんでした。親子の会話が成立することもありませんでした。「あの狂った母親をなんとかしろ」という声が止むこともありませんでした。あの親の子どもがまともな人生を歩めるはずがないという評価は常について回ります。

それでも、私の人生から、喜びと感謝が消えることはありませんでした。

もし私たちが、人生という航海の真っ只中に、まことの光、イエス・キリストを受け入れるなら、彼がキャプテンとなり、行くべき進路を示してくださいます。

舟の中には、いつも、イエス・キリストがおられます。嵐の中で、舟が風に煽られ、大量の水が入り込み、目的地の到着できずに航海が終わってしまうかもしれない。そんな恐れを抱くことがあっても、主が共におられる限り、舟が沈むことはありません。

あなたがどんな闇の中にいようと、神はその闇を照らし、あなたの足元を照らし、共に旅をし、そして目的地へとあなたを導いてくださいます。

このクリスマスの夕べ、インマヌエル、共におられる主、イエス・キリストが、お一人お一人の人生の航海を導くキャプテンとなってくださいますように。