9 Lessons and Carols 説教

マーガレット教会では、昨年からこの9 Lessons and Carolsの礼拝を始めました。今年で2回目ということになります。

この9 Lessons and Carolsという礼拝は、非常に新しい伝統です。2千年以上に渡るキリスト教の歴史の中で、このスタイルの礼拝の前例となるようなものは存在しませんでした。そのような意味で、この礼拝は純粋なAnglican Traditionの一つと言うことができます。

この礼拝を作ったのは、Church of EnglandのTruro 教区主教であったEdward White Bensonという人で、彼は後にカンタベリー大主教となります。1880年のクリスマス・イヴ、Truro教区のCathedralで、初めてこの礼拝が行われました。

短い聖書朗読に続いてキャロルを歌うスタイルの礼拝は瞬く間に人気を集め、1918年からは、ケンブリッジ大学のKing’s College Chappelでも行われるようになりました。

そして、1934年からは毎年、King’s Collegeの礼拝の様子をBBCが生中継するようになりました。そのため、9 Lessons and Carolsと聞くと、多くの人は、King’s College Chappelの礼拝だと思うわけです。

この礼拝はその後、Church of Englandの枠を超えて、カトリック教会も含め、世界中のあらゆる教派の教会で行われるようになりました。

Bensonがこの礼拝を夜の10時に行うことにしたのは、パブで飲んだくれている男たちを引っ張り出して、11半から行われる深夜ミサに与からせるためだったとの伝説がありますが、真偽のほどは不明です。

この礼拝の一つの特徴は、礼拝そのものが一つのドラマとして構成されているということです。人は神に叛逆し、罪に堕ちます。しかし神は人を闇の中に捨て置かず、闇を照らすまことの光、救い主イエス・キリストを送り、闇の中にある人々に救いの道を備えます。この礼拝の中で展開されるのは、神の愛と恵みに基づく、救いのドラマです。

ところで、皆さんはこの礼拝をクリスマスの礼拝、だと思って来られたかと思いますが、実はこの9 Lessons and Carolsは、クリスマスの礼拝ではありません。この礼拝はまだ、クリスマスの備えのための礼拝なのです。

そのようなわけで、、闇を照らすまことの光、救い主イエス・キリストを迎える準備となることを願って、ここで短いお話をさせていただきます。

戦後間も無く、クリスチャン人口が0.5%にも満たない日本で、クリスマスの主人公そっちのけでクリスマスが「祝われる」ようになったのは、クリスマスのイルミネーションやパーティーに象徴される「豊かさ」への憧れからです。

しかし誕生日を迎える人をそっちのけにした誕生パーティーのようなクリスマスを、上手に皮肉った人がいます。それはサザエさんです。より正確には、サザエさんを通して、長谷川町子さんという方が、主人公無しの無意味なクリスマスを皮肉ったのでした。

恐らく、日本で生活をしていて、『サザエさん』とまったく接点なしに過ごすということはほとんど不可能でしょう。サザエさんを知らない日本人を探すというのも、ほとんど不可能に近いと思います。もし「サザエさん」を知らない日本人にお会いする機会があったら、どういう生活をすると「サザエさん」となんの接点もなしに日本で過ごすことができるのか、ぜひ聞いてみたいと思います。

ところで、日本人なら誰でも知ってる『サザエさん』ですが、『サザエさん』の作者、長谷川町子さんがクリスチャンであったことを知っているのは、かなりマニアックな人です。さらに、実はサザエさん一家、つまり「磯野家」がクリスチャンであることを知っているという日本人は、ほとんどいないと思います。

実は、サザエさん一家がクリスチャンであることを私が知ったのも、たかだが11年前のことです。

今でこそ人気アニメのサザエさんですが、もともとは新聞の4コマ漫画でした。そして、4コマ漫画時代のサザエさんには、磯野家が教会で過ごしている姿が度々登場するんです。クリスマスのシーンも出てきます。

例えば、1940年代には、カツオくんたちがクリスマスツリーを飾り、教会で讃美歌を歌っている姿が登場します。1961年には、ワカメちゃんが教会で降誕劇の練習をしている場面も描かれます。

しかし何と言っても、1962年12月14日の朝日新聞朝刊に掲載された『サザエさん』は、クリスマスを題材にした傑作です。実物をお見せすることができなくて残念ですが、こんなストーリーです。想像力をたくましくしてお聞きください。

1コマ目

二人の中年のおじさんが、商店街通りを歩いています。一人はくわえタバコで、ジャンパーのポケットに手を突っ込んでいます。あるお店に目がいきます。お店の外にはクリスマス・ツリーが飾ってあって、店内ではジングルベルが流れています。

2コマ目

先ほどの二人のおじさんが、別の店に目をやると、このお店の前にもクリスマス・ツリーが飾ってあって、「メリー・クリスマス」という横断幕が掛かっています。そして、サンタに扮した店員が客引きをしています。

3コマ目

二人のおじさんが、今度は教会の前を通りかかります。教会の牧師さんがクリスマス・ツリーの飾り付けをしているのが目に留まります。

4コマ目

サザエさんが牧師さんと一緒にクリスマスツリーの飾り付けをしています。それを見た例の二人組のおじさんの一人が、こうのたまわります。

 「みろよ。教会までクリスマスセール(売出)に便乗してるぜ」

もちろん便乗しているのはお店の方で、教会ではありません。

長谷川町子さんは、街中がクリスマスの雰囲気に包まれても、クリスマスの意味については全く無関心、あるいは無知な日本人を、たった4コマからなる物語を通して皮肉ったわけです。しかし、実はこの皮肉めいた話は、クリスマスの真実を語っています。

教会は、光であるイエス・キリストが私たちのもとに来られた、そのことをクリスマスにお祝いします。そして、この光は・・・闇の中に輝くのです。

クリスマスのドラマは、闇を照らすまことの光のドラマであり、この光は闇を愛する人間の姿を映し出します。もし物語の背景をなしている闇を否定するなら、クリスマスの物語は物全く無意味になります。

華やかなショー・ウィンドウや街を飾るきらびやかなイルミネーションは、クリスマスの意味であるイエス・キリストという光と、キリストの光によって照らされるべき闇の両方を覆い隠してしまいます。

つまり街を覆うクリスマス的なもの、ショー・ウィンドウの華やかさや、きらびやかなイルミネーションに私たちの目が奪われている限り、まことの光は隠れたままなのです。

しかし、もし私たちが開かれた目をもって、世界を見つめ、そして自分自身を見つめるなら、私たちは世界の闇、そして自分の闇の深さの前にたじろぎ、そして人間の力で、この闇に立ち向かうことはできないことに気づき、絶望します。そして、逆説的なことに、私たちが絶望するとき、私たちが自分の無力さに打ちひしがれるときこそ、闇を照らすまことの光に向かって、私たちの目が開かれるときなのです。

教会はなぜ、クリスマスを祝うのでしょうか。それは、イエス・キリストの到来が、人間の苦しみ、哀しみ、無力、絶望に対して、神様は決して無関心ではおられないという保証だからです。

悲しみの涙でクリスマスのイルミネーションが見えなくなるとき、あるいは大きな苦しみの中で、クリスマスの華やかさが無意味に感じられるとき、それはクリスマスの本当の光、イエス・キリストがあなたの内にやってくるときです。

どうぞこのクリスマスを迎えるとき、世界の闇、そして自分の心の闇を覗き込んでください。それによって、皆さんの目が、闇を照らすまことの光、イエス・キリストに向かって開かれ、クリスマスを祝う本当の意味を知ることができますように。