顕現後第一主日・主イエス洗礼の日説教

13 Jan 2019 Baptism of our Lord

イザヤ42:1-9;  使徒言行録8:14-17;ルカ3:15-17,21-22

今日はイエス様の洗礼を覚える主日です。先週の日曜日、顕現日の説教で触れたように、イエス様の洗礼は、もともと顕現日のテーマの一つでした。東方教会では今も、先週の日曜日、顕現日にイエス様の洗礼が祝われました。

私のfacebook上のお友達には、直接には会ったことのない世界中のクリスチャンたちが何人もいるのですが、その一人が先週の日曜日に、Mega-blessingと題された、非常に面白い動画を紹介していました。

それは、ギリシア正教会の顕現日の礼拝の一場面です。司祭がオリーブの枝を束ねて作った巨大なスプリンクラーを両手に持って、なみなみと水の張ってある巨大な金のボールの中にそれを浸して、信徒に向かって振りかざします。大量の水が降り注ぐわけです。司祭がオリーブの枝の束を振りかざすたびに、信徒からは歓声と笑い声が沸き起こります。

伝統的で非常に堅苦しいイメージのある東方教会の礼拝、しかもイエス様の洗礼を祝う礼拝で、司祭がまるで子どものようにやんちゃに振る舞い、信徒たちが大歓声を上げて大笑いしているのを見て、礼拝のあるべき姿について考えさせられました。

教会の礼拝の中心には聖餐式、食事があります。聖餐式は、ユダヤ教の過越の食事ではありません。過越の食事は年に一度しかありません。しかし初代教会は、日ごとに集まって、パンを割き、共に祈りをささげていました。聖餐式は、本来、神の国の祝祭の先取りなのです。

静かなパーティーなんてものはあり得ません。そして教会の礼拝の中心に神の国のパーティーがある以上、「礼拝は静かで厳かであるべきだ」というイメージは、教会の礼拝の本来の姿から、相当にかけ離れていると言わざるを得ません。

今日の福音書に目を向けましょう。ルカは、「民衆はメシアを待ち望んでいて」、もしかしたらヨハネがメシアではないかと心の中で考えていた」と記しています。

これまでも度々触れていることですが、民衆が待ち望んでいたメシアは、イスラエルをローマの支配から解放ししてくれる、ダビデ王のような軍事的指導者です。異教徒が駆逐され、エルサレム神殿が異教徒の支配から解放され、清められることこそが、イスラエルの人々が思い描く正義であり、裁きでした。

ヨハネもメシアは裁きを下し、正義を実現する者であると信じています。それは、ヨハネが、自分の後に来る「メシア」について、自分よりpowerfulで、「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」と言っていることからわかります。

しかしバプテスマのヨハネ自身のメシアについての理解は、イスラエルの民衆大きく異なるところがあります。イスラエルの民衆は、神の裁きが下って滅ぼされるのは異教徒だけだと思っていました。しかし、バプテスマのヨハネは、イスラエルの民に属していることが、神の裁きを免れることにはならないことを知っていました。だからこそヨハネは、イスラエルの民に、罪の赦しのためのバプテスマを宣べ伝えていたわけです。

しかしヨハネは、自分が授ける「水の洗礼」が、罪を赦す力のないことを知っていました。水は清めること、洗い流すことの象徴です。しかし、水は、人の罪を洗い清めることはできません。罪を洗い清めることができるのは、すなわち罪の赦しを与えることができるのは、彼の後に来られる方、イエス・キリストの、聖霊と火によるバプテスマだけです。

ところがヨハネが宣言する、「聖霊と火」によるバプテスマを授けるイエス様の姿は、4つの福音書のどこにもありません。どの福音書を読んでも、イエス様が洗礼を授けている場面はないのです。

イエス様がご自分の宣教活動中に洗礼を授けていたと記している箇所は、福音書全体の中で、たった1箇所しかありません。それはヨハネの福音書3章です。バプテスマのヨハネの弟子たちが、マスターのもとにやって来て、こう報告します。

 「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」(ヨハネ3:26)

ところがヨハネは4章で、わざわざバプテスマのヨハネの弟子たちの報告の間違いを修正して、こう言っています。

   1 さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、2 ――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである――3 ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。(ヨハネ4:1-3)

つまりイエス様は、「聖霊と火」によるバプテスマどころか、水による洗礼も授けてはいないのです。さらにバプテスマのヨハネと私たちとを困惑させることに、ヨハネが「聖霊と火」によって洗礼を授けると言ったその方は、洗礼を授ける代わりに、洗礼を受けるために、バプテスマのヨハネのもとにやって来られたのです。

父のひとり子が、罪人であるヨハネから、罪を赦す力のない水のバプテスマを受けます。すると天からの声がこう宣言します。

 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。

この天からの声は、イエス様に罪の赦しが必要ないことを宣言しています。

しかし罪無き神のひとり子イエス様は、罪人であるバプテスマのヨハネから、罪の赦しを与えることのできないバプテスマに与ることによって、罪人の一人に数えられました。

これは、罪の無い方が、イエス・キリストご自身が、神が創造された世界を破壊し、愛に基づいて築かれるべき人と人との関係を憎しみに基づく敵意に変える、罪の破れを、その身に負われたということです。彼は、私たちの病を、私たちの痛みを担ったのです。

さて、それではバプテスマのヨハネが宣言した、聖霊と火によるバプテスマはどこへ行ったのでしょうか?ヨハネの宣言は、単なる勘違いから来た、間違いだったのでしょうか?

そうではありません。ルカ福音書の著者は使徒言行録の著者でもあります。そして、使徒言行録はペンテコステの出来事が記されています。

聖霊は、イエス様が十字架に死なれ、甦り、天に昇られた後、約束の助け主として、弟子たちに与えられました。聖霊を受けた使徒たちとその他の弟子たちは、十字架に架けられ、復活し、天に昇られたイエス・キリストを大胆に証しし、福音を受け入れた者たちは、父と子と聖霊の御名によってバプテスマを受け、弟子とされました。

つまり聖霊と火によるバプテスマは、教会の業なのです。教会が、十字架に架けられ、復活されたメシア、イエス・キリストを宣べ伝え、父と子と聖霊の御名によってバプテスマを授け、新たな弟子を生み出すとき、教会は、イエス・キリストがすでに始められた、罪の赦しの業、再創造の業に参与するのです。

十字架の福音が語る罪の赦しは、単に、良心的人間を増やす試みではありません。福音が語る罪の赦しとは、罪に破れた世界を神が修復し、神が新たに造り替えるプロセスであり、その中に私自身の修復が含まれています。

私たちは誰も、自分自身の努力によって罪の赦しを獲得するわけではありません。この地上にあって、私たちが罪を犯さなくなることはありません。もし罪を犯さなくなるなら、わたしたは私たちは礼拝の中で、罪を告白したりしません。

しかし私たちがイエス・キリストに結ばれ、この方と共に歩み続けるなら、私たちは世界の破れを修復し、完成へと導く神の再創造の業を担う者とされ、その中で私たち自身も、罪を赦された、新たな人として作り変えられていくのです。

十字架で死なれ、復活されたイエス・キリストが、聖霊と火によって与えられる罪の赦しとは、cosmicな、宇宙大の広がりをもつ神の働きであり、私たちはその働きを担う者として召されました。

願わくは、マーガレット教会が大胆に福音を宣べ伝え、聖霊と火による罪の赦しの洗礼を授け、キリスト・イエスにある世界の再創造の業に喜んで参与する群とされますように。