顕現後第三主日説教

27 Jan 2019

今朝の福音書朗読は、ルカ4章14節から21節までで終わっていますが、本来は14節から30節までが、一つのまとまりを成しています。しかし、22節から30節が来週の朗読箇所に指定されているので、今週の説教は一つの話の半分しか扱えないという奇妙な制約の中にあります。そのようなわけで、今週と来週、2回分合わせて一つの説教になると思ってお聞きください。

そして皆さんに一つお願いがあります。今日の説教の中でお話しすることの多くは、来週の説教の中でひっくり返るか、あるいは劇的な捻りが加えられます。ですから、来週どんでん返しがあるつもりで、今日の説教をお聞きください。

 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、19 主の恵みの年を告げるためである。」

これはイザヤ書61章1節、2節から引用ですが、2節の途中で引用が終わっています。イザヤ61章2節はこのようになっています。

 2 主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め、(この後3節に続きます)。

お気づきになられたでしょうか?イザヤ61章2節が告げる「主の恵みの年」というのは、「神が報復される日」です。

貧しい者、心打ち砕かれた者、奴隷や囚人、嘆いている者は、神が敵に報復されるのを見て慰められる。イザヤ書はそう言っているのです。

イエス様が、イザヤ書61章2節の引用から、「神が報復される日」を落としたのはなぜか。その説明は来週に回さざるをえません。今朝は、「報復」や「復讐」という感情は、実は思う以上に、ずっと重要なものだということをお話して、来週の説教への橋渡しとしたいと思います。

実は、「報復」や「復讐」の感情と、正義と不正とを識別する能力は、密接に繋がっています。

幼い子どもが、親や大人の暴力によって命を落とすニュースは私たちを震撼させ、私たちは直ちに「不正義」を感じ取ります。

政治家がどれだけ違法行為に手を染めても、証拠隠滅を命じ、自分に都合のよいことしか言わない官僚を「証人」に立て、証言が偽証であることが明らかになっても、政治家を守ることで点数を稼いだ官僚は、配置換えになるだけで、誰も裁かれない。

今の政権になってから、そんな光景をどれ程目にしてきたことでしょう。利権の中枢にいる人間は、権力の中枢に近いゆえに、巨大な不正の責任は誰にも問われることがありません。

私のような、社会の底辺に生きてきた者の心の中には、常に、不正によって富を成し、自分の無責任の結果を弱い者・貧しい者に擦りつける者たちへの怒りが、マグマのように吹き溜まっています。

私たちが「不正」を感じ取るのは、ただ単に恣意的ルールが破られるからではありません。日本で車が左車線を走ることがルールになっているからと言って、アメリカ人は不正を成しているなどと感じはしません。私たちが不正を感じることができるのは、私たちのうちに組み込まれた、「苦しみと行為」とのバランス・センサーがあるからです。

虐待によって子どもが殺されるとき、その背後に子どものいかなる行為があったとしても、子どもが被った苦しみと行為との間には、著しい不均衡があります。私たちはそこに巨大な不正を、悪を感じ取ります。

不正な利得よって富を成す者や私服を肥やす政治家の姿を見る時、私たちは、彼らが自分の行為の報いとして被るべき苦しみを被っていないことを直観し、そこに不正を感じ取ります。そして、この行為と苦しみとの不均衡を感じ取らせ、不正を成した者は苦しむべきだと感じさせるセンサーは、私たちの復讐心に根ざしています。

つまり、復讐心は、自分に危害を加え、自分に不当な苦しみを与えた者は、同じ苦しみを被るべきだという直感であり、それは善悪の判断、正義と不正とを識別するための土台を成す感情なのです。この感情は、家族や友人や愛する人たちといった、自分に近い者たちが不当な苦しみ、故なき苦しみを被ったときにも敏感に反応します。

さらに、この感情が共同体全体にも拡大して適用され、害を加えた者は同じ害を被らねばならないという、いわゆる同害報復の原理となります。

驚くべきことかもしれませんが、私たちクリスチャンは、「復讐心」を捨てることを求められてはいません。むしろ、それを保っていなくてはなりません。

黙示録の6章で、イエス・キリストへの信仰のゆえに殺された殉教者たちはこう叫んでいます。

 10 「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか。」(Rev 6:10)

殉教者たちは、彼らの主、私たちの主、イエス・キリストが、復讐してくれるときを待ち望んでいるのです。クリスチャンは能天気なロマンチストではありません。私たちの主は、「あなたの敵を愛せよ」と命じておられますが、それは敵を好きになることではありません。敵は嫌悪すべき存在であって、決して敵を好きになってはいけません。敵を好きになれば、敵を識別できなくなります。その結果として、私たちは善悪の識別力も失います。

クリスチャンは、復讐心を捨てるようにとは命じられませんが、復讐を神に委ね、自分で復讐することを放棄するようにと命じられています。だからこそパウロはこう言っています。 

 19 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。20 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」21 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。(Ro 12:19-21)

繰り返しますが、敵を愛することは、敵を好きになることではありません。それは敵が成す悪を許すことであり、敵が悪の道から立ち返るように祈ることです。そして敵が死にそうな時には助け、神が必ず復讐してくださることを信じながら、燃える炭火を敵の頭に積み上げることです。

クリスチャンが自分で復讐することを放棄できるのは、イザヤ61章に語られる解放が、イエス・キリストによって成就し、敵に自ら報復することによって正義を実現する、古い世界は終わりを告げたと信じるときだけです。

イエス様は、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣言しました。しかし主がその到来を宣言した神の国は、誰の期待にも合わず、それ故、誰にも理解されず、そして誰にも受け入れられませんでした。

願わくは、聖霊が私たちの心を照らし、イエス・キリストを通してすでに始まっている神の国を信じる信仰を与え、神の国の民として生きる喜びで私たちを満たしてくださいますように。