大斎節前主日説教

3d Mar 2019

出エジプト 34:29-35;  1コリント 12:27 – 13:13

この日曜日は、日本聖公会の聖書日課では、大斎節前主日と命名されています。伝統的には、この大斎節直前の主日はQuinquagesimaと呼ばれてきました。

Quinquagesimaというのは、ラテン語で50番目を意味します。この日を含めて、50日目にイースターがやってくることから、この名で呼ばれるようになりました。しかし20世紀後半に入ってから生まれた新しい伝統の中で、この大斎節直前の主日は Transfiguration Sunday(変容貌の日曜日)と呼ばれるようになりました。

その結果、大斎節前のこの主日は、大斎節に向けた準備としての日曜日ではなくて、顕現節の頂点として位置づけられました。1月6日のEpiphany、顕現日から始まって、大斎節直前までの日曜日が顕現節です。

Epiphany、顕現日という祝日は、新約聖書に記されている、イエスさまの栄光を顕す出来事をお祝いする日です。しかし、顕現日に祝われる出来事は、地域ごとに違っていました。あるところではイエス様の誕生を、あるところでは東方の賢者の来訪と幼子イエス様への礼拝を、そして別のところではイエス様の受洗を、顕現日に祝っていました。

私は今年の顕現日、1月第1日曜日の説教の中で、顕現日にお祝いされる出来事の中に、Transfiguration、変容貌の出来事が入っていないのは非常に不思議なことだと申しました。どうも、20世紀半ば以降のLiturgical Movement、典礼復興運動に関わった典礼学者の中にも、同じように考えていた人が少なからずいたようです。

彼らは、顕現節の最後の日曜日に当たる大斎節直前の日曜日を、顕現節の頂点と位置付けました。そして、そこにイエス様の栄光を最もさやかに顕す出来事の一つ、変容貌を持ってくることにしたのです。

イエス様の栄光が顕わされるこの場面に、モーセとエリヤが登場するのは、イスラエルの歴史における最も偉大な指導者モーセの栄光よりも、イスラエルの歴史に登場した最も偉大な預言者エリヤの栄光よりも、イエス・キリストの栄光は、はるかに偉大で、まったく別次元であることを示すためです。新約聖書の著者たちが、イエス・キリストに帰する栄光は、世界を創造し統べ治める神に帰せられるのと同じ栄光です。

ルカが、イエス様の栄光の顕われである変容貌の出来事を、イエス様の死と復活の予告の8日後に位置付けているのは、イエス・キリストの栄光を、新しい天地創造の業に結びつけるためです。

創世記1章には、神は6日で世界を創造し、そして7日目に安息に入ったと記されています。

ルカは、変容貌の出来事を、イエス様の死と復活の予告の八日後に位置付けることで、イエス・キリストが宣べ伝えた神の国、そのしるしとしての業、そして十字架の死と復活によって成就される事柄を、新しい天地創造の第一日目として現しているのです。

ルカが、イエス・キリストによって成就される業を、新しい天地創造と見なしていることは、31節からも読み取ることができます。ここには、イエス様が、モーセとエリヤと、「エルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」と記されています。

ここで「最後」と訳されているのは、ギリシア語のἔξοδοςという言葉です。ἔξοδοςという言葉を聞けば、イスラエルの民はただちに「出エジプト」の出来事を思い浮かべます。エジプトからのἔξοδος、それは神ご自身による解放の業であり、救いの出来事です。イエス様がエルサレムで成就されるἔξοδος。それは新しい天地創造の業です。

パウロはローマの信徒への手紙8章で、被造物についてこのように言っています。

20 被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。21 つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。22 被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。(Romans 8:20-22)

現代の理論物理学者たちは、宇宙が死に定められていることを知っています。しかし、2千年以上前のパウロが、被造物が虚無に服し、滅びへの隷属にあると言っているのは驚くべきことです。そしてパウロはさらに、被造物は人間と共にうめき、共に産みの苦しみを味わっているとも言っています。

神によって良きものとして創造されたこの世界は、罪によって歪んでいる。今のこの世界が、世界のあるべき姿なのではない。それは旧約聖書と新約聖書全体を貫くメッセージです。

しかし被造物は「希望も持っている」とパウロは言います。被造物が持っている希望。それこそ、虚無からの、滅びへの隷属からの解放に他なりません。

そしてルカは、この変容貌の場面で、イエス・キリストは、エルサレムの十字架の上で、虚無に服し、滅びへの隷属にある被造物のἔξοδοを成就されることを示そうとしているのです。

言葉を変えれば、イエス・キリストがエルサレムで成就されるのは、産みの苦しみの中にあるこの宇宙を解放し、完成へと導くための業です。

神は、苦しみと、悲劇と、不条理に満ちたこの世界を見捨てておられない。神は、罪に歪み、痛み、うめく被造物に働きかけ、変革し、そこから朽ちることのない、栄光の世界を出現させたようとしておられる。しかも、その業を、イエス・キリストを通して始められ、そして彼を通してすでに完成を約束された。それが聖書に語られる福音なのです。

新約聖書に記された福音は、人生がうまく行っている時には、いつ開けるともわからない引き出しの中に眠らせておいて、困ったときに引っ張り出して、心を落ち着かせるために利用する、安っぽい精神安定剤ではありません。福音が語るのは、全宇宙の解放であり、救いです。その被造物全体の回復の業の中に、私たち一人一人の救いも位置付けられているのです。

「なぜキリストは肉を取り、人となられたのか」この質問に対する一つの答えは、物質を贖うためです。

神は、イエス・キリストを通して、被造物のうめきに、人々の苦しみに自らを重ねられました。それは、被造物を変革し、土の塵から造られ死に定められている体を、朽ちることのない、栄光の体とするためです。

私たちと同じ肉を取られたこのイエス・キリストは、まことの人です。地の塵から造られたイエス様の体から、神の栄光の光が輝き出ています。まことの人、イエス・キリストの歩みは、人の命は神を見ることにあり、神を見て生きる人の歩みは、神の栄光となることを示しています。

私たちは、イエス・キリストに結ばれるとき、神ご自身によって生かされる、まことの人として造り変えられ始めます。キリストに結ばれて、まことの人に造り変えられていくなら、私たちは神の栄光を顕す者とされてゆきます。そして、神によって生かされる人となり、神の栄光を顕す者とされることを通して、私たちは神の命、すなわち滅びることのない命に、永遠の命に与る者とされるのです。

ペトロとヨハネとヤコブは、神の新たな創造の業が完成されるときに現れる、変革され、決して朽ちることのない栄光の世界を、この変容貌の場面で垣間見ています。

願わくはこの朝、神が私たちの前にもイエス・キリストの栄光を顕し、その栄光を見る目を与えてくださいますように。