大斎節第一主日説教

10th Mar. 2019

申命26:1-11;ローマ10:5-13;ルカ4:1-13

今年は、先週の水曜日から、ようやく大斎節に入りました。伝統的な大斎節第1主日のテーマは、イエス様が荒れ野で受けられた悪魔からの試みです。

今朝の福音書朗読の最後の節、ルカ4章13節に、こう記されています。

 「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。」

悪魔がうかがう次の「時」、それはイエス様が十字架に架けられる時です。この荒野の試みの場面はすでに、イエス様の人生が、イエス様の働きが、イエス様の宣教活動が、十字架に向かっていくものであることを示しています。

ですから、もし、今朝の福音書朗読の箇所が理解できれば、私たちは、なぜイエス・キリストが十字架の上で殺されなければならなかったのか理解できます。逆に、この荒野の誘惑とは何であったのか理解できないと、イエス・キリストがなぜ十字架にかけられることになったのか理解できません。

4章2節で、イエス様が「四十日間、悪魔から誘惑を受けられた」と言われているのを聞くと、「こんなご時世に悪魔なんて時代錯誤もいいところで、全くナンセンスだ」と思う方もあるかもしれません。

しかし、イエス様がここで対峙している敵は、おとぎ話に出てくる、角を生やしたちょいワルの登場人物などではありません。

イエス様を試みているのは、この世に生きる全ての人々を虜にしている力です。この力は、単に、一人一人の正しい判断や、正しい行いを妨げるというような、生易しいものではありません。

誰も戦争を望んでいないのに、武器と死体が積み上がり、増え続けます。

誰もが人間らしく、尊厳をもって生きられるような社会を願っているのに、「健全な自由市場」は貧困を生み出し続け、格差を拡大し続けます。

誰もホームレスになる人がいなくなった方がいいと思っているにも関わらず、ホームレスがいなくなることはありません。

過労死などという異常な事態が起きていても、人間を使い捨てにできる法律が作られ続け、維持されます。

いじめを苦にして自ら命を断つ子どものニュースが流れる度に、いじめを放置してはいけない、命を大切にする教育をしなくてはいけないというキャンペーンが展開されます。しかし、学校の組織や制度が根本的に変革されるということはなく、いじめによる自殺は無くなりません。

繰り返しますが、この世の力、悪魔の力は、ただ単に、個人が正しい判断をし、ただし行いをすることを妨げるだけではないのです。悪の力は、この世のありとあらゆる組織や制度の、構造そのものの中に巣食っています。

皆さんは「自分は家族や、学校や、会社に追い立てられ、支配され、振り回されているだけだ。実際には、自分が生きているんじゃ無い。」そう感じることがないでしょうか?

どれほど注意深く、善意の人を集めて組織を構成したとしても、出発点の良き目的から逸脱させ、組織の一部の人間を特権化し、組織の自己保存のために、支配、統制、そして暴力へと誘う力。

これこそ新約聖書が悪魔、サタン、この世の神、天の諸霊、悪霊、諸力、あるいは「世の力」と呼ぶものです。悪魔は、人間が生活を営むあらゆる環境の真っ只中にいます。

だからこそ、誰もこの力から、悪魔の誘惑から逃れることはできず、自分の力でこれに対抗し、打ち勝つこともできません。

悪魔は、私たちの目を、肉の必要にのみ向けさせようとします。人の目が肉の必要と肉の欲にのみ向けられる時、人は神によって自分に与えられた、命も、体も、スキルも、自分の地位も、立場も、ひたすら自分のために用いようとします。

いつしか、人の目は肉の必要に固定化され、自己保存と肉の欲望を満たすことが絶対的価値となり、人を操り、支配し、そして敵を抹殺することが必要となります。

ルカ4章6節と7節で悪魔が言っているのは、まさにこのことです。

   6 そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。7 だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」

この世に、支配、統制、暴力から自由な組織は一つとして存在しません。そして、支配、統制、暴力のあるところには、必ずその背後にこの世の神が、悪魔がいます。権力と繁栄は、悪魔と手を握ることによって与えられるのです。

「誘惑」と訳されているもとのギリシア語(πειράζω)は、テストすること、調査すること、そして「見極める」ことを意味します。悪魔はイエス様をテストし、調査するために、イエス様に近づいています。悪魔は、ナザレのイエスが、他の全ての人間と同じように、自分の一味となるかどうかを、見極めようとしているのです。

この最初の試み、あるいは誘惑の場面で、父なる神に対するイエス様の従順と忠実は、「抵抗」として現れます。私たちはここではまだ、イエス様が「何をしないか」、イエス様が「何を放棄し」、「拒否したか」を学ぶだけです。

つまり、この「荒野の誘惑」の場面は、イエス様の宣教が開始されるその前に、イエス様が「どのようなメシアでないか」を示す役割を担っています。イエス様が「何を放棄したか」を知ることは、イエス様の従順と忠実が成し遂げた積極的側面を知ることの裏面です。

ですから、イエス様が「放棄された」ことを知ることと、イエス様が「成し遂げられたこと」を知ることとは表裏一体です。

では、イエス様が抵抗し、放棄し、受け入れなかったものとは何でしょうか?それはこの世の全ての帝国、この世のすべての国の支配者の道であり、暴力と威圧による支配と統制です。これを放棄し、拒否し、そして否定したことによって、イエス・キリストは、この世の神、悪魔によって十字架に架けられるのです。

暴力と威圧による支配を人々が受け入れなくなったなら、この世の国は滅びます。そのため、この世の国は、支配者が行使する暴力は平和のために必要であり、戦争が平和を生むのだと人々に信じさせ続ける必要があります。

この世の神、悪魔は、暴力が秩序を維持し、戦争が平和を生むという信仰を人々に捨てさせる者を生かしておきはしません。だからこそ、悪魔の誘惑に対するイエス・キリストの勝利は、十字架の死に至るのです。

イエス・キリストがこの世の神によって十字架につけられた以上、教会がその主に忠実に従って歩むとするなら、この世の国から苦しめられることを覚悟していなくてはなりません。

魔女狩り、異端審問、軍事力による正統教義の強制などなど、教会が犯してきた無数の罪は、教会が主から目を離し、世の支配と結託したときに何が起こるのかを私たちに示しています。

人間は、神の言葉を用いて、神に逆らう行為を正当化することもできます。教会も、この世の神の力から自由ではありません。

父なる神が、イエス様に託された使命は、この世の神、悪魔に「抵抗する」ことでした。イエス・キリストによってこの世に遣わされた教会も、悪魔の支配にたいする抵抗勢力として、世に遣わされています。

しかし主が教会に託した使命を果たすためには、イエス・キリストが悪魔の試みに遭われたとき、何を放棄したのかを知らねばなりません。

このレントの期間、イエス・キリストが、どのようなメシアでないのかを学ぶことができますように。

また、荒れ野の試みにおいて主が拒否したものを深く知ることを通して、教会の歩みを点検するときとなりますように。