大斎節第二主日説教

17th Mar. 2019

創世記15.12-18;フィリピ3.17-4.1;ルカ13:31-34

「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(Gen 15:6)

私たちの信仰の出発点には、アブラハムがいます。イスラエルの民が祈りをささげ、賛美をささげ、礼拝する神は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼ばれます。

そして教会の信仰もまた、アブラハムに結びつけられています。使徒パウロは、イエス・キリストへの信仰を通して、新しいイスラエルである教会に結ばれた者たちこそが、本当のアブラハムの子孫なのだと言っています。(Gal 3:6-9)

そしてアブラハムの信仰について、このように言っています。

「そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。」(Rom 4:19-20)

ここに描かれているのは、信仰の英雄アブラハムです。ところが、旧約聖書の創世記を見ると、パウロが描く偉大な信仰者アブラハムとは全く違う姿が現れます。

カナンの地を飢饉が襲った時、アブラハムは妻のサラと共にエジプトに逃れ、そこに滞在します。妻のサラは美しい女性でした。アブラハムは、エジプト人の男たちが、自分を殺してサラを妻にしようとするかもしれないと恐れます。アブラハムはサラに、自分の妹だと言うようにと命じます。その結果、サラは、エジプトの王、ファラオのもとに召し入れられます。その見返りに、アブラハムはサラの兄弟として、ファラオから「羊の群れ、牛の群れ、ろば、男女の奴隷、雌ろば、らくだなどを」受け取ります。

つまりアブラハムは、妻を妹と偽り、その妻がエジプト王の妾として召し入れられたことで、莫大な財産を手に入れたのです。偉大な信仰者のやることとは思えません。

神はアブラハムに、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」と約束されました。

アブラハムの時代、そして彼が生きたオリエント世界の中で、自分の血統を残すことは、未来の保証であり、「跡取り」となる子どもを得ることは、神からのもっとも大きな祝福と見なされていました。

人々は、あらゆる手段を使って、自分の血族を残す道を探りました。アブラハムの妻サラは、自分に子どもが与えられないのを見て、自分の女奴隷を使って子どもを得ようとします。これは現代の私たちにとってはとても受け入れがたいことですが、当時のオリエント社会の中では一般的なことでした。

サラは、アブラハムに、自分のエジプト人女奴隷、ハガルと寝るようにと提案します。アブラムは提案を受け入れ、サラの女奴隷、ハガルと関係を持ち、その結果、イシュマエルという男の子が生まれます。

信仰の父と呼ばれるアブラハムですが、彼はこのとき、オリエント社会の慣習に従って、その社会で当たり前と見なされている行為を通して、自分の子孫を残そうとしているだけです。このアブラハムの姿を前にすれば、百歳になって自分の体が衰え、妻サラが子を宿せないと知りながらも、信仰が弱まることはなく、不信仰に陥って神の約束を疑うこともなく、信仰によって強められて神を賛美したというパウロの言葉は、虚しく響きます。

旧約聖書に記されているアブラハムの姿は、品行方正でもなければ、信仰深くもなければ、ましてや信仰の英雄とは程遠いと言わざるをえません。では、このアブラハムのどこに、私たちは信仰を、ましてや信仰による「義」を見出すことができるでしょうか?そのヒントは、ヨシュア記24:2にあります。そこにはこうあります。 

 『あなたたちの先祖は、アブラハムとナホルの父テラを含めて、昔ユーフラテス川の向こうに住み、他の神々を拝んでいた。』

実は、アブラハムはカルデア人、あるいはバビロン人でイスラエル人ではありません。より正確に言えば、アブラハムの時代に、イスラエルという民は存在していませんでした。アブラハムも彼の家族も、天地を創造された、まことの神を知りませんでした。ところが、アブラハム自身も、彼の祖先も知らなかった神が、あるときアブラハムを選び、そして語りかけます。

 「1 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。2 わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。」(Gen 12:1-2)

神がアブラハムに語りかけ、呼び出されると、アブラハムはその呼びかけに応えました。彼は、この神の呼びかけに応えて、自分の生まれ故郷を捨て、家族と友人を離れ、そして先祖の神々を捨てて、行き先もわからぬまま、旅を始めました。

生まれ故郷を捨て、家族と友人を捨て、神々を捨てること。それは安全と安定を諦め、無防備なさすらい人となることを意味します。

神がアブラハムに語りかけ、生まれ故郷から呼び出された後、彼は落ち度のない、完璧な人生を歩み、信仰の英雄となったのでしょうか?

全くそうではありません。アブラハムの生涯もまた、私たちの人生と同じように、それは多くの失敗と、恥ずべき行いに満ちています。しかしアブラハムは、彼を導き出した神と共に旅をすることを止めませんでした。この神に祈り、この神を礼拝することを止めませんでした。

今朝の福音書の中で、ファリサイ人たちは、イエス様にこう言っています。

「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」

彼らは、イエス様の身の安全を心配してこう言っているのではありません。自分たちよりもはるかに群衆の支持を集め、人気者となったイエス様に、自分たちの視界から消えてほしいと思っているだけです。

恐らく、私たちの信仰生活の中にも、ファリサイ人が姿を現すときがあるはずです。それは、私たちが、躓き、倒れ、失敗し、罪を犯し、信仰生活がうまくいっていないと感じているときです。

そのようなとき、私たちは心の中で、「イエス様、いっそ、私の前からいなくなってください。」そう言いたくなります。

しかし、そのようなときこそ、私たちは、信仰の父、アブラハムの生涯を思い起こすべきです。アブラハムの生涯は、決して完璧でも、清廉潔白でも、英雄的でもありません。しかし、アブラハムは彼に語りかけ、生まれ故郷から呼び出した神と共に旅することを止めませんでした。いえ、むしろこう言うべきでしょう。アブラハムに語りかけ、彼を生まれ故郷から導き出した神は、アブラハムを見捨てなかった、と。

だからこそアブラハムは、私たちクリスチャンも含めて、神を信じて歩もうとする全ての者にとって、信仰の父となったのです。

私たちに呼びかけ、私たちをこの世から呼び出し、新しいイスラエルである教会に結びつけてくださったイエス・キリストは、私たちが躓きやすく、弱い、罪人であることを知っておられます。

旅の途中で、私たちは躓き、倒れます。しかし、試みに打ち勝たれ、十字架の上で罪を打ち破ったイエス・キリストは、私たちを見捨てません。

弱っている時、試みにあっているとき、倒れている時、主は私の傍に共にいてくださり、何度でも私たちを立ち上がらせ、そして共に歩んでくださいます。

私たちの弱さを知り、私たちが通るすべての試みを通られた主が、神の愛のみ翼の陰に、私たちを集めてくださいました。

この主に導かれて歩む喜びと、平安と、感謝が、この朝、お一人お一人の心を満たしますように。