顕現後第七主日説教

24 Feb. 2019

先週の金曜日、インターネットでその日のニュースを読んでいたとき、こんな記事が目に留まりました。それは、神戸市須磨区に、終末期の患者たちが望ましい最後を迎えるためのホスピスを開設しようという計画が、近隣住民の反対で暗礁に乗り上げているという記事でした。

事業者は、少子高齢化の中で空き家が増加している須磨ニュータウンで、空き家の一つを買い取り、余命宣告を受けた患者4, 5人と、その家族を受け入れ、利用者の希望に沿った介護や看護を実費で提供するという計画を建てていました。ところが近隣住民から、「亡くなった人が出ていくのを見たくない」とか、「落ち着いて生活できない」いった声が上がり、自治会を挙げてのホスピス反対運動が展開されます。事業者側が住民説明会を提案しても、自治会はそれを拒否して、「看取りの家はいらない」、「断固反対」などと書かれたチラシを配布し、家の外壁に同様の文言を掲げて徹底的に反対します。

今後40年、日本は世界的にも類を見ない、超高齢化・超少子化社会を経験することになります。それは同時に、「多死社会」に突入することを意味しています。今後、在宅療養が困難になっても、高齢者施設にも病院にも受け入れられない人々が増え続けることは、火を見るよりも明らかです。

それにも関わらず、多くの日本人は、「死」を想起させるものを自分の周りから徹底的に遠ざけておこうとしています。なぜでしょうか?

それは彼らにとって、死が最後の言葉を握っているからです。必ずやってくる死を遠ざけておかなくてはならなのは、死を超える希望がどこにも無いことの、最も明白なしるしです。死を見つめない社会とは、無意味と絶望が支配する社会なのです。

では、私たちクリスチャンは、「死が最後の言葉ではない」と、本気で信じているでしょうか?「死を超える希望があるのか」という問いは、私たち人間が発し得る、もっとも重大な問いです。

「希望はあるか」と問う時、私たちは、単に、自分の死の向こう側に何があるかを問題にしているのではありません。「希望」について語ることは、人類の運命だけではなく、全宇宙の運命について語ることになります。なぜなら、「死に定められている」のは人間だけではないからです。この地球上に生きるすべての生きとし生けるものは皆、死に定められています。

地球の生態系を支える最も重要な要素を二つ挙げるとするなら、水と光です。どちらがなくても、地球は死の星になります。ところが太陽は、約55億年後には現在の核融合のプロセスを停止し、巨大化し始め、地球上のすべての命を焼き尽くします。地上のすべての命は、死に定められています。

さらに全宇宙も、「死」に定められています。約137億年前にBig Bangによって始まった宇宙は、約100億の72乗年後に死を迎えるのです。1979年にノーベル物理学賞を受賞した Steven Weinberg という理論物理学者は、宇宙が死に定められているという現実を前に、こう書いています。

「宇宙についての理解が進むほど、宇宙はますます無意味になっていくようだ。」 Dreams of a Final Theory: The Search for the Fundamental Laws of Nature (1993)

我々人類の直接の祖先、homo sapiens が登場するのはわずか19万5千年前です。宇宙の歴史の中では、全人類の歴史全体を合わせても、大海の小さな気泡に過ぎません。80年や90年の人間の一生など、無限にすら思える宇宙の歴史の中では、無に等しいと言わざるを得ません。

被造物の内側から人生を、そして全宇宙を見る限り、私たちの人生もこの宇宙の存在も無意味であり、そこには何の希望もありません。なぜなら被造物の内側から人間と宇宙を見るなら、「死」が最後の言葉を握っていることは確実だからです。

先週と今週、2週に渡って第2朗読で第1コリント15章が読まれています。その中でパウロは、希望を失いかけているコリント教会のメンバーたちに、希望の根拠を示し、その上に堅く立つようにと励ましています。コリントの教会の人々が希望を失っていったのは、教会の内部に、「キリストは復活しなかった」と主張する人がいたからです。

「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか」と言って、キリストの復活を否定している者たちは、復活と単なる蘇生とを混同しています。彼らは復活を、死んだ人間が、再び元の体に、死すべき体に戻ることだと思っているのです。復活を否定する人々に向かって、パウロはこう宣言します。

「17 キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰は不毛であり (μάταιος: futile)、あなたがたは今もなお(あなたがたの)罪の中に (ἔτι ἐστὲ ἐν ταῖς ἁμαρτίαις ὑμῶν) います。」

今なお罪の中にいるということは、死が未だに最後の言葉を握っているということです。私たち一人一人の人生も、この世界も、そしてこの宇宙も滅びをもって終わり、無意味だということです。

パウロは、蘇生と復活を混同する「愚かな者」たちに、二つの異なる「体」について説明します。私たちは朽ちる体、卑しく、弱い、自然の体を持って生まれ、生き、そして死んでいく。しかしイエス・キリストに結ばれた者たちは、朽ちることのない栄光の体、強い霊の体をもって甦るのだ。パウロがこのように言う根拠は、最後のアダム、イエス・キリストが霊の体、朽ちることのない栄光の体をもって復活されたからです。

復活されたイエス様は十字架にかかって死なれたイエス様ですが、復活の主の体は、十字架にかけられたイエス様の体と同じではありません。復活は、塵から造られた朽ちる自然の体の上に起こることですが、復活のときに与えられる霊の体は、この体とはまったく異なる、朽ちることのない栄光の体です。

この連続性と断絶との意義を、どんなに強調してもし過ぎることはありません。復活のキリストの体は、私たちが知っている、朽ちてしまう体とは異なる、新しい体がやってくることの保証です。それは同時に、キリストが再び来られ、彼を通して始められた新しい創造の業が完成されるとき、神は、私たちが知っているこの宇宙を超えて、滅びることのない、もはや死の力が及ばない世界を現してくださるというしるしでもあるのです。

世界を創造された愛なる神が、イエス・キリストを死から甦らせられた。だからこそ私たちは、私たち一人一人の人生も、この宇宙の存在にも意味があると信じ、私たちの命もこの宇宙も、死を持って終わるのではないという希望を持って生きることができるのです。死と無意味と絶望が支配するこの世界の中で、死を超える希望を示し、その希望を生きること。これこそが、イエス・キリストが、教会に託された使命です。

イエス様が、敵を愛し、人に善いことをし、何も当てにしないで貸すようにと私たちに命じられるのは、私たちの力では不可能なそのような生き方こそが「感謝することを知らない者にも、悪人にも親切で、恵みを注がれる愛なる神」を指し示すことになるからです。

十字架の上で私たちの罪のために死なれ、栄光の体に甦られたキリスト・イエスが、私たちをまことの希望と喜びに満たし、愛なる神を証しする者としてくださいますように。