大斎節第四主日説教

31 Mar 2019

ヨシュア4:19-24,5:9-12;2コリント5:17-21;ルカ15:11-32

今朝の福音書朗読は、有名な「放蕩息子の譬え」と呼ばれる物語です。日曜学校の子どもたちもよく知っているお話ですが、これをを理解するためには、この喩えの文脈がとても重要です。

この譬え話の文脈は、15章の1節と2節に記されています。1節にはこうあります。

「1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。」

ルカ15章1節に登場する、徴税人、そして罪人と呼ばれる者たちは、自ら選択したライフスタイルによって、契約の民、イスラエルから離脱した人々です。彼らは、「イスラエルという契約の民は、モーセの律法に従って生きる」という大前提を拒否した者たちということになります。

神殿で献げられる犠牲祭儀と律法の遵守を中心とするユダヤ教信仰において、罪は律法の規定を侵すこととイコールでした。罪を犯した者に対する報いは、イスラエルという信仰共同体から追放されることであり、罪を赦されるということは、共同体のメンバーとして回復されることを意味していました。

モーセの律法は、重い罪を犯した者、すなわち安息日遵守しない者、殺人、姦淫を犯す者、さらに親に恥をかかせる子を石で打ち殺して、共同体から抹殺するようにとさえ命じています。これはもちろん、共同体の他のメンバーに対する見せしめのためです。

モーセの律法は、自分で気づかずに律法を破った者の罪を赦し、共同体のメンバーとして回復するために、どんな生贄をささげるべきかを定めた規定があります。

しかし律法の中には、「律法で禁じられている」と知ってながら罪を犯した者の罪を赦し、共同体に回復させるための規定は一切ありません。徴税人、罪人、そして遊女たちは、血統的にはユダヤ人であっても、もはや契約の民に属さない、汚れた者、神に呪われた者と見なされていました。

律法に忠実に従い、汚れを避け、自らを聖く保とうとするユダヤ人たちは、決して徴税人や罪人と言われる人々と交流することはありませんでした。罪人と交われば、自分も汚れると考えられていたからです。

しかしイエス様は、もはや契約の民に属さず、神に呪われた者として嫌悪されていた者たちと交わり、彼らを歓迎し、食事まで共にしました。

これを見たファリサイ人と律法学者は不平を言います。「あいつは罪人を受け入れ、歓迎し、一緒に食事までしている!」と。ユダヤ人社会において、共に食事をするということは、最も親しい関係にあることの証でした。ですから、徴税人や、罪人や、遊女と共に食事をする者は、彼らと同類だと見なされたのです。

この文脈の中で、「放蕩息子の譬え」は語られています。

この短い物語は、神殿とモーセの律法を中心に組み上げられている、ユダヤ人社会の常識を覆す要素に満ちています。

弟息子が、父にこう願い出ます。『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください。』これは、当時のユダヤ人社会に生きる者たちにとって、信じがたいことです。

この時代、この社会に、生前分与という発想はありません。例外的に、家長である父が何らかの理由で財産管理ができなくなった場合に、父親から息子に、財産の一部の管理を任せることはありました。

その場合、父が息子に命じて管理をさせるのであって、息子から財産をわけてくださいということはありません。しかも、管理を任された子は、父に損害を与えないように財産を運用する義務を負いました。

財産が息子のものとなるのは、あくまでも父の死後です。ですから、弟息子は、父親に「お父さんがすでに死んだことにして、僕に財産をください」と言っていることになります。

モーセの律法は、親に逆らい、面子を潰すような子どもを石打ちにして殺すようにとさえ命じています。

ところが驚いたことに、父は息子の願いを聞き入れて、財産を分け与えます。父の顔に泥を塗るような息子は、石打ちにするか、親子の縁を切るべきなのであって、こんな馬鹿げたリクエストに応える父が、ユダヤ人社会にいたはずはありません。父親の行動は、弟息子の行動以上に、当時のユダヤ人にとっては受け入れがたいものです。

弟息子は、父から譲り受けた財産、土地を正しく管理するどころか、それを売り払い、現金化し、親も家族も、そして神も捨てて、遠い国へと旅立ちます。責任を逃れ、労せず手に入れた莫大な財産で、自由を満喫しよう!この弟息子の生き方は、ある意味では現代人が理想とする生き方です。

弟息子は、父から与えられた財産を売って手に入れた金で、贅沢三昧をし、欲望の赴くままに生き、そして全てを失います。さらに追い討ちをかけるように、その国を飢饉が襲い、弟息子は食べるにも困るようになります。

そこで彼は再び、ユダヤ人にとって受け入れがたい行動に出ます。彼は異教徒のもとで雇われ人となり、豚の世話をすることになったのです。彼は、豚の餌であるいなご豆を食べて腹を満たしたいと思うところまで、豚以下のところまで、身を落とします。しかし、雇い人は、この弟息子に豚のエサさえ与ません。そこでようやく、彼は我に帰ります。

しかし弟息子が自分の行いを「本当に悔いた」のかどうか、よくわかりません。「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ」という言葉;そして、それに続く、父に再開した時にどんな言葉を言おうかと考える姿には、したたかな計算が見え隠れしているようにも思えます。

しかし、弟息子が本気で自分の過ちを悔いたのかどうか、その「本気度」は、この喩えを理解する上で、大した問題ではありません。

ユダヤ人社会の常識からすれば、こんな息子が帰ってきて何を言おうが、再び迎え入れる父親などいるはずもありません。ですから、この譬え話の中で何よりも際立つのは、父の並外れた寛大さです。その前では、弟息子の回心の本気度など、大した問題になりません。

実際、豚以下のところまで身を落とした弟息子を遠くに見つけて、走り寄り、口づけし、彼を再び息子として迎え入れ、盛大なパーティーを開くこの父の態度が、弟息子の口から出る言葉によって変わったとも思えません。

弟息子が、相続権を持つ正当な子として受け入れられた。これは父の一方的な憐れみであり、恵みです。ここに愛なる神の姿が示されています。ここでは弟息子の回心の「質」は、まったく問題になりません。

そして父が帰りを待ち、喜んで受け入れたこの弟息子は、イエス様が共に食事をした徴税人であり、罪人であり、そして遊女たちです。イエス様は、もはやイスラエルの民に属さず、神に呪われた者と見なされていた人々が、神の国の食卓に着いていることを示しています。

しかし父の愛と哀れみは、弟息子が独占しているわけではありません。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。』この言葉に表されているように、父は上の兄をも愛し、心を配っています。

弟も、兄も、父の愛と愛の中で生かされているのに、そのことに気づいていないという点においては、弟もそして兄も同じです。

私たちは往々にして、この譬えの中の弟の位置に自分を置いて読みますが、実際には、私たちは弟にもなるし、兄にもなります。

例えば、20年以上も教会から離れていた人が教会に来ると、自分は放蕩息子だったけれども、神様のもとに帰って来たと思うでしょう。

ところが、その同じ人が5年後には兄になっていて、新たに神のもとに帰ってきた人を歓迎しない。そんなケースはいくらでもあります。

私たちが弟になろうが、兄になろうが、必要なことは一つです。私たちの当たり前の日々は、神の恵みの中にあると気づいたなら、その度に、神のもとに帰ることです。

何があっても、どれだけ失敗を繰り返しても、私たちがどれだけ神のことを忘れて生活していても、私たちが我に帰って、神のもとに帰ろうとするとき、神の側から私たちのもとに走り寄り、私たちを迎え、そして祝宴の席に招いてくださいます。

愛なる神が私たちを、回心の質を問うことなく、自分の信仰が本物かどうかと自問自答することもなく、主の食卓に帰り続ける忠実な罪人としてくださいますように。