
7 Apr 2019 Fifth Sunday of Lent
今日の福音書の物語を理解するためには、旧約聖書の「預言書」と呼ばれる16ないし17の書物に見出される、強力な伝統について知っている必要があります。
預言者たちは、「その日」について、民に警告を発します。「その日」は「裁きの日」であり、イスラエルが辱められる日のことです。どうぞ、旧約聖書の預言者と、ノストラダムスの大予言とを混同しないようにしてください。
基本的に、旧約聖書の預言者たちは、いつかは分からない、遠い未来に起こるかもしれない出来事について語っているのではありません。預言書と言われる書物に現れる預言者たちは、自分と同時代の同胞に向かって語り、「差し迫っている危機」、「裁き」について警告を発します。
より具体的には、旧約聖書の預言者たちがイスラエルに対して警告する裁きは、イスラエルを取り巻く帝国による侵略と破壊として現れます。北のイスラエルに対する裁きは、アッシリアによる侵略と破壊であり、南のユダに対する裁きは第二バビロニア帝国による侵略と破壊でした。
そして今日の福音書に記されたイエス様の言葉は、明確に、「その日」、「裁きの日」について警告する預言者の伝統に基づいて語られています。
ぶどう園は約束の地、カナンであり、農夫たちはイスラエルの民であり、僕たちは預言者であり、ぶどう園のオーナーの息子、そして家を建てる者たちが捨てた石はイエス様のことです。
しばしばイエス様は「神の国」を宣べ伝えたと言われます。それはまったく正しいのですが、もう一つ付け加えるべきことがあります。
どの福音書を見ても、神の国の告知と、裁きの宣言がセットになっているのです。端的に言えば、イエス様は、自分が宣べ伝えている神の国を受け入れなければ、待っているのは滅びだと宣言して歩いたのです。
「12 言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」(Lk 10:12)
13「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところでなされた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたにちがいない。14 しかし、裁きの時には、お前たちよりまだティルスやシドンの方が軽い罰で済む。15 また、カファルナウム、お前は、/天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。」(Lk 10:13-15)
「28 あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。29 そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。30 そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」(Lk 13:28-30)
これらのイエス様の言葉はみな、「その日」を告げ知らせる預言者の伝統に属するものです。ですから、イエス様の言葉を聞いた民衆は、イエス様を預言者の一人だと思っていました。そして、実際、イエス様は預言者でした。
福音書の中でイエス様が繰り返し語る裁きは、実は死後の魂の運命に関する話ではありません。イエス様は、エルサレム神殿を頂点とするイスラエル社会のヒエラルキーが崩壊することを預言したのです。
それは一言で言えば、イスラエルの神は、エルサレム神殿にはいないという宣言です。エルサレム神殿で捧げられる礼拝を、神はもはや受け入れない。神殿を中心に組み上げられたイスラエルは、もはや神の選びの民ではない。
自分が宣べ伝えている神の国を拒否して、これまで通りの、神殿祭儀を頂点とするヒエラルキーを維持しようとするなら、それらは滅びの道だ。イエス様はそう言言したのです。
度々イエス様が言われる「高い者」、「低い者」、あるいは「富める者」、「貧しい者」というのは、エルサレム神殿を頂点とするヒエラルキー内部でのステータスと直結しています。
エルサレム神殿を頂点とするヒエラルキーの内部で、高い位置にいる者たち、あるいは富める者たちとは、祭司長、律法学者、商人たち、サドカイ人、そして多くのファリサイ人たちです。彼らはエルサレム神殿を頂点とするヒエラルキーが崩壊する時に共に滅び、恥を受けることになりました。
それに対して、このヒエラルキーから離れて、イエス様が語られた神の国を受け入れた者たちは、滅びを免れ、神の国の民、新しいイスラエルとして生き延びることになりました。
律法学者や祭司長たちは、イスラエルの歴史の中に、預言者がいたことを知っていました。預言者は主の日について警告し、その警告を聞かず、イスラエルの民は裁きを受け、恥を受けたことを知っていました。
彼らは、神の前で聖く、そして正しく生きることを願い、モーセの律法と預言者たちの言葉を忠実に学び、詩篇をもって祈りをささげることに、もっとも熱心な人々でした。彼らは、次に預言者が来たならば、自分たちは決して預言者を殺すようなことはしないと固く信じていました。
ところが彼らの中に、聞く耳を持つ者はいませんでした。結果的に、彼らは自ら滅びへの道を選び、そして神殿を頂点とするヒエラルキーは、ローマ軍によって滅ぼされました。
ここに、最も信仰深い者が、神の国から最も遠いという、皮肉と逆説、そして私たちに対する警告があります。
私たちは皆、人間が作り上げたものを、神と混同する傾向を持っています。そして自分で作り上げたものを偶像とし、これを守り、これに仕えることを、神に仕えることとだと勘違いします。
神殿を中心とするユダヤ人社会の中心にいる人々、高い者たち、富める者たちは、エルサレム神殿が偶像崇拝の巣窟になっていることに気づきませんでした。
同じことは教会についても言えるはずです。組織としての教会に仕えることが、神に仕えることを意味するわけではありません。
更に言えば、組織としての教会が、偶像崇拝の場となることは、歴史の中で幾度となく繰り返されてきました。恐らく、それは現在進行形のことで、今も起こっていることでしょう。
では私たちはどうすればいいのでしょうか?恐らく、私たちの目指すべき姿は、こだわらず、身軽であることでしょう。
貧しい者、低い者、徴税人や遊女や罪人と呼ばれる人々が、祭司長や律法学者より「神の国」に近かったのは、彼らは神殿を頂点とするヒエラルキーを維持する必要のない人たちだったからです。
「神様が大宴会を開いてくれるんだ!一緒に食べて、飲んで、歌って楽しもう!」彼らは、そう呼びかけられたことが、自分もパーティーに招かれたことが嬉しくて、喜んでパーティーに参加しただけです。
イエス様が預言された通り、エルサレム神殿と神殿祭儀を中心とするイスラエル社会のヒエラルキーは滅びましたが、神と人とをつなぐまことの神殿、イエス・キリストは滅びませんでした。このまことの神殿は、地理的に固定されることがありません。この神殿は、聖霊の風が吹くところに、どこにでもあります。
願わくは、愛なる神が、聖霊によって私たちを導き、イエス様と共に喜んで、そして何よりも身軽に旅を続け、命の道を歩ませてくださいますように。