復活前主日説教

14 Apr 2019 Palm Sunday

主の弟子として、私たちが成長してゆくプロセスは、私たちがイエス・キリストの物語を通して、人生の意味を学ぶプロセスと重なっています。

例えば、今朝の福音書朗読に描かれている、主が十字架につけられて殺されるまでの一連の出来事は、これから皆さんにお話しする出来事の背後にあるメカニズムを、あるいは問題の本質を明らかにしてくれます。

皆さんの中に、Michael Woodfordという名前を聞いて、ピンと来る方はおられるでしょうか?

彼は20114月に、オリンパスという会社で初の、非日本人社長に就任し、半年後にCEOとなります。その年の10月、FACTAという小さなメディアが、オリンパスの巨額粉飾決算疑惑について報道します。

その報道内容が内部告発に基づいていることを見て取ったWoodford氏は、過去の経営責任者たちに説明を求めますが、誰も口を開きません。Factaの報道があった後も、日本の大手マスコミは沈黙を続けます。

そこで彼は、英国の会計監査法人に独自調査を依頼し、1990年代に財テクに失敗して生じた1千億にのぼる巨額損失を、オリンパスの経営陣が、「飛ばし」と呼ばれる手法で、20年近くも隠し続けてきたことを突き止めます。永年に渡り不正が行われてきた確かな証拠を得たWoodford氏は、旧CEOを含む過去の経営責任者の辞任を求めます。

ところが、取締役会では逆に、「Woodford氏の社長、CEO、代表取締役の解任」動議が出され、「全員一致」の賛成で、彼は解任されてしまいます。国内の大株主は、旧経営陣への批判の声を上げなかったばかりか、23百億円にのぼる不正を告発したWoodford氏をサポートすることさえしませんでした。

不正を指示し、隠蔽し、それに加担してきた者たちは保護され、逆に、問題を指摘した者が、「問題を起こした者」として非難され、謝罪を要求され、それを拒否すると村八分にされる。村社会の論理に支配される日本的組織の病を示す、典型的事例です。

責任ある立場の者たちが不正を指示し、あるいは隠蔽することで、自分たちの立場と特権とを維持しているのですから、自浄作用などというものが働く余地はありません。

もし見る目があり、聞く耳があれば、この物語と、イエス様が十字架の上で殺されるまでの出来事の間に、並行関係を見いだすことができるはずです。

今朝読まれた福音書の中で、イエス様を十字架にかけるための主導権を握っているのは、祭司長たちと律法学者たちです。

彼らはエルサレム神殿中心とするイスラエル社会というピラミッドの、一番上にいる人たちです。その人たちが、イスラエルの民を惑わし、民衆を扇動する、ローマ帝国に対する反乱運動の指導者として、イエス様を訴えているのです。

これは非常に奇妙なことです。祭司長と律法学者たちは、イスラエルの宗教指導者です。彼らの役割は、神に忠実に仕える道を民に示すことです。彼らがもっとも避けるべきもことは、神ならぬものを神とすること、偶像崇拝です。

政治と神々は常に一つに結ばれています。ローマの支配は、ローマの神々による支配を意味します。そうである以上、祭司長と律法学者たちは、本来、ローマによるイスラエルの支配を、もっとも受け入れることのできないはずの人たちです。

ところが実際には、祭司長たち、そして律法学者たちはローマと結びつくことで、特権的地位を享受していました。ローマの後ろ盾を失うことは、彼らの享受している特権、そしてステータスを失うことを意味します。

皮肉なことに、エルサレム神殿を頂点とするイスラエル社会のヒエラルキーは、ローマの神々という土台に支えられているわけです。

預言者としてのイエス様は、神殿を頂点とするイスラエルというピラミッドが、ローマの偶像という土台の上に建てられていて、そこには神の正義も、神の平和もないことを暴露しました。

そして、先週も触れたように、イエス様は、エルサレム神殿を中心とするイスラエルの宗教体制と社会体制が、その体制の中心に巣食う偶像崇拝の故に滅びると預言しました。

さらにイエス様は、エルサレム神殿を力の源泉とする体制を放棄して、自分が宣べ伝える神の国の運動に加わるようにと人々を招きました。

このままイエス様を放置して、さらに多くの人々がイエス様の言葉を受け入れ、エルサレム神殿を中心とする体制に背を向けたなら、イスラエル社会のヒエラルキーの頂点にいる人々は、彼らの特権も地位も失います。

群衆の暮らし向きは、権力者たち、特権階級との距離に依存しています。群衆は、力ある者たちに従順であることが、身の安全を守る道であることを知っています。

こうして、祭司長たちと律法学者たちが主導した陰謀に、民衆は追従し、真実を語るイエス様が、反乱を起こす者として訴えられ、そして抹殺されます。

ここにこそ、闇の力、罪の力があります。私たちがどんなに知恵を尽くしても、善意の人を集めても、命の道を作り出すことはできません。

私たちは、自分で自分の命を守ろうとして、むしろ滅びの道を選んでしまうのです。

Blaise Pascalは、この闇の力、罪の力について、洞察力に満ちた、鋭い言葉でこう語っています。

正義は論争の種とならざるを得ない。力はあまりに明々白々であるが故に、議論の余地を残さない。とどのつまり、人々は正義に力を与えることができなかった。何故なら、力は正義に抗弁し、正義を不正であると言い、自分が正義であるとのたもうたからである。こうして、正しい者を強き者とすることができないがために、人びとは強い者が正義であるとしたのである。(パスカル、『パンセ』、断片298、「正義、力」)

イエス様は、強い者たちによって、そして強い者に服従する群衆によって、十字架につけられ、殺されます。しかし、闇の力の勝利としか思えない十字架の死を通して、イエス・キリストは闇の力を、罪の力を撃ち破りました。

私たちの人生が、絶望という墓の中に閉じ込められることがあっても、神は必ず、そこから私たち引き出し、再び立ち上がらせてくださる。これが十字架の勝利であり、死を超える希望であり、私たちの信仰です。