Thursday 18 Apr 2019
Maundy Thursday
聖マーガレット教会では、昨年から毎月第2と第4日曜日の夕方5時から、ユースのための聖餐式を始めました。ユース聖餐式では、分かち合いの時間を大切にしています。小さなグループに分かれて話をしていると、普段は聞けないようなことが、色々と話題に上ります。
そこで彼らが話しているのを聞いて私が改めて確認したことは、「彼らはみんな戦っているんだ!」、ということでした。
言うまでもなく、日本社会の中でクリスチャンは超少数派です。学校や、会社を始め、日本的集団は、強力な画一化のプレッシャーによって、「みんなが同じ」であることを要求します。日本的集団は、組織的に、「違い」を排除することで、日本的集団になっているとも言えます。
その中で私たちは、「空気を読み」、「人に合わせる」ことを学び、そして「日本人」になります。
「ボクはクリスチャンです。」「わたしは日曜日に教会に行っています。」
そう言った瞬間に、日本的集団にもれなく付いてくる、違い発見レーダーに引っかかり、奇異な目で見られたり、からかわれたり、あるいはバカにされたりするかもしれない。
ユース聖餐式のメンバーたちは、「周りと違う」ことをどう受け止め、クリスチャンとしてどう生きるかを真剣に考えながら、戦っています。
私が今晩、ここで確認したいことは、私たちは皆、彼らと同じ戦いを戦うために、この世から呼び出されたということです。私たちは、「この世」と違う生き方をするために、この世から取り分けられたのです。
そして、この夕べの洗足礼拝は、私たちが、この世にどんな違いをもたらすために呼び出されたのかを、目に見える形で、端的に示しています。
教会の使命は、「そこに住む人々が喜んで互いに仕え合う集団は、どんなコミュニティーになり得るのか」を、この世に示すことです。
この世は、自分は人に仕えることなく、人を自分に仕えさせるようになることを、成功と呼びます。この世においては、自分が利用されずに、人を自分のために利用する者が偉い者であり、上に立つ者であり、上司であり、ボスです。
しかし、イエス様は弟子たちに、互いに足を洗い合うようにと「命じ」ました。神の国で偉くなりたい者は、皆の足を洗えと言われました。
「足を洗う」ことは、イエス様が地上の生涯を歩まれた時代、最も身分の低い者のすることでした。奴隷の仕事の中でも、最も屈辱的な仕事でした。イエス様のために仕事を捨てて、共に旅をした弟子たちでさえ、イエス様の足を洗ったことはありません。
しかしイエス様は、弟子たちの足を洗いました。イエス様は、ご自分を裏切る、ユダの足さえ洗い、神の国の民とされた者の生き方を、自ら示されました。
この世は、「お前の能力を見せてみろ。お前が人より優れている点を示してみろ。お前の利用価値を証明しろ。」そう叫んでいます。
しかしイエス様は、「あなたに与えられた全ての賜物を、自分のためではなく、人に仕えるために用いなさい。何よりも、共同体の中の最も弱い者に仕えるために用いなさい」と言います。
そのような生き方は、この世の「成功」の基準を放棄しなければ不可能です。
もし世界が、与えられた賜物や才能を、自分だけのために使う人間で溢れたとするなら、どんな世界がやってくるのか。その行き着く先がどこか私たちに垣間見させるような、衝撃的な事件が、2016年の7月に起きています。
相模原市緑区の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者ら19人が刺殺され26人が重軽傷を負った事件です。犯人の男は、この施設の元職員でした。彼は安倍総理宛ての手紙を、大島衆議院議長に出しています。その中で、犯行の目的を詳しく記しています。
「障害者は不幸を作ることしかでき」ないので、「重複障害者」が「家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界」にする必要がある。これは「全人類の為に必要不可欠」な革命であり、日本国が大きな第一歩を踏み出すべきだ。そう言うのです。
これを聞いて、この犯行動機が、「異常な人間の狂気」に過ぎないと考えるなら、私たちは狂気が正常となった世界に生きていることに気づいていないということになります。
事件後、インターネットには、犯人の「やったことは悪いけど、言ってることはわかる」、「一理ある」「普段同じこと思ってる」、「筋は通ってる」といった、犯人の思想と価値観に賛同する声が溢れました。
ネット上で意見を発表するのは、偏った人間だと思われるなら、その認識も修正が必要です。2015年、茨城県教育総合会議の席上、教育委員の一人がこう発言しました。「妊娠初期にもっと(障がいの有無が)わかるようにできないんでしょうか。4カ月以降になると堕ろせないですから」「(特別支援学級は)ものすごい人数の方が従事している。県としてもあれは大変な予算だろうと思った。」「意識改革しないと。生まれてきてからでは本当に大変です。」
この発言が問題となると、橋本昌(まさる)・茨城県知事は、「産むかどうかを判断する機会を得られるのは悪いことではない」と、教育委員の発言を擁護します。
それよりはるか以前に、石原慎太郎前都知事は、知的障害者施設を訪れた後、こう発言しています。「ああいう人ってのは人格があるのかね。」「ああいう問題って安楽死なんかにつながるんじゃないかという気がする。」
19人の知的障害者を刺殺し26人に怪我を負わせた犯人と、ネット上の賛同者と、千葉県の教育委員に千葉県知事、そして前東京都知事が考えていることに、ほとんど違いはありません。
自分の命、自分の体、自分の能力、自分の財産を、自分のために使うことを「自己実現」と呼んで称賛する世界は、すでに崩壊しています。
破綻を招いた成功モデルの次が必要です。そしてイエス様はすでに、その「次」のあるべき姿を、私たちに示しています。
目指すべきは、互いに仕え、喜んで給仕する者を育てることです。そして、それこそが、教会の使命です。私たちは、喜びをもって互いに仕え生き方を、どのように学ぶことができるでしょうか?
その答えは、共に食卓を整えることにあります。共に食べるだけではなく、共に食卓を整えるのです。
ユース聖餐式のメンバーたちは、それを始めました。彼らは聖餐式の前に、共に食事を作ります。礼拝が終わり、グループでの分かち合いと祈りが終わった後、彼らはテーブルをセットし、食事を並べ、夕食を共にします。食事の後の後片付けも、一緒にします。
そこ生まれる交わりの時は、神の国の前味と呼ぶにふさわしい、喜びと、豊かさに溢れています。
この世の成功モデルが過ぎ去った後、より日常的なレベルで、「共に食卓を整え、共に食事をする共同体」を作り出さなくてはならない時が、必ずやってきます。
互いに足を与えと命じた主が、その時に向けて、私たちを整えてくださいますように。