18 Apr 2019 Good Friday
教会はその初めから、十字架に架けられたキリストを、福音として宣べ伝えてきました。パウロは言います。
わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。(1 Cor 1:23-24)
ところが教会は、少なくとも最初の2世紀は、「十字架に架けられたキリスト」を崇めてはいても、「十字架そのもの」を崇めることはありませんでした。この間、十字架が教会の信仰のシンボルとして用いられることもありませんでした。
ローマの地下墳墓、カタコンベの壁には、2世紀後半から3世紀にかけて描かれた、イエス・キリストへの信仰を表現する様々なシンボルが残されています。鳩、魚、魚とパン、風と波に揉まれる船、船の錨、ぶどうの木とその枝、ギリシア語でキリストと綴るときの最初のふた文字 X-R、そして、肩に羊を抱える羊飼いなどです。しかし、そこに十字架はありません。
十字架が図像として現れるのは4世紀以降のことです。そしてこのときから、十字架に架けられたイエス・キリストではなく、十字架が崇敬の対象になります。十字架が、ローマ帝国の敵に対する、ローマ皇帝の軍隊の勝利のシンボルに変質したのです。
しかし使徒たちとその直後の教会は、イエス・キリストの十字架が、この世の王国と神の王国との衝突であることを知っていました。この世の政治は神の国の政治を受け入れることができないために、イエス・キリストを十字架につけた。そのことを教会は知っていました。
「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」そう叫んでいる群衆の中心にいて、彼らを扇動しているのは祭司長であり、律法学者であり、そしてファリサイ人です。大祭司は信仰共同体としてのイスラエルの頂点にいる者たちです。ユダヤ教の信仰の中心と見なされていた、エルサレム神殿の最高責任者です。彼らは、イスラエルの民にとって、天地の創造者なる神こそがまことの王であることを、誰よりもよく知っている者たちです。
しかしイスラエルの信仰の指導者たちが、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と宣言します。そして彼らは、ナザレのイエスを、政治犯として、反乱分子として、つまりテロリストとして、十字架の上で処刑することをピラトに求めます。ナザレのイエスを始末するという彼らの願いは、ローマの手を借りることで実現しました。
本来、完全な敵対関係にあるはずのローマとイスラエルが手を組んでまで、イエス様を亡き者にしようとしたのはなぜでしょうか?
イエス様は預言者でした。彼は、預言者として、欺瞞と偽善と暴力が、この世の支配、この世の政治の構造そのものに組み込まれていることを暴き出しました。支配者は常に、支配される人々に、自分に仕えることを要求します。しかも支配者に対する支配される者たちの奉仕は、「もし拒否すれば酷い目にあうぞ」という脅迫によって担保されています。
十字架は、そのもっとも明白なしるしです。ローマの支配に従わない者、皇帝の支配に逆らうものが、十字架の上で、見せしめとして殺されたのです。欺瞞と偽善と暴力は、ローマ帝国の政治と属州イスラエルの政治の構造そのものです。この構造の内部で、今、この時に抑圧されている者たちを支配者の立場に据え、現在の抑圧者たちを従属的立場に据えても、欺瞞と偽善と暴力が消え去り、正義がなされるということにはなりません。
酷いいじめを受けていた被害者が、陰惨ないじめの加害者になることは、珍しいことではありません。抑圧されていた者たちが抑圧する側となり、抑圧していた側が抑圧される立場になることも、決して珍しいことではありません。
そのことは、ミャンマーの例を見ても明らかです。軍事政権下で抑圧されていたアウンサンスーチー氏が政権を握った後、多くの人々は、正義が行われるかのような幻想を抱きました。しかし、抑圧的政治の現実はほとんど変わりませんでした。ロヒンギャ族に対する迫害と抑圧が止まることはなく、むしろ、より苛烈になりました。
ここに、イエス様がなぜ十字架に架けられたのかを理解するための鍵があります。この世の王国とその政治は、イエス・キリストとその王国を受け入れることはできません。なぜならイエス・キリストと彼の王国は、この世の王国の政治の裏に隠された、欺瞞と偽善と暴力を暴き立てるからです。
イエス・キリストが語る神の国を受け入れるということは、彼をまことの王として受け入れ、その足元に膝をかがめることを意味します。それはこの世の支配者にとって、支配を諦めることを意味します。王なるキリストのもとに膝をかがめるということは、自分の人生、人々の人生、そして世界を支配したいという願望を放棄して、僕として仕える道を歩むことです。
祭司長、律法学者、ファリサイ人、ローマ帝国が拒否し、この世の政治が拒否し続けているのは、この道です。イエス・キリストの十字架の死とは、この世の政治による、神の国の政治の拒絶なのです。
しかしナザレのイエスは、この世の政治の背後にいる、この世の神の力、悪の力を撃ち破りました。これこそ主が、十字架の上で「成し遂げられた」ことであり、これこそ十字架の勝利です。
キリストの十字架の勝利によって、今や「時」は贖われ、新しい時代が始まりました。十字架は、新しい創造の業の始まりに位置する出来事です。そしてイエス・キリストが十字架の上で始められた、新しい創造の業は、新たな政治に基づく、新たな王国、神の国として始まりました。
教会は、イエス・キリストが創造された、神の国の平和を生きることによってのみ、神が始められた和解の業、天地の再創造の業が真実であることを世に示すことができます。
願わくは主が私たちを、互いに仕え合い、大いなる喜びをもって共に食卓を囲み、世の人々に、神の国の平和と喜びを示す共同体として建て上げてくださいますように。