復活節第三主日説教

5 May 2019 Third Sunday of Easter

 わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。(1 Cor 15:9)

最後に使徒とされたパウロの言葉です。

「使徒」という言葉は、完全にキリスト教世界の専門用語で、教会以外の文脈で使われることはほぼありません。日本語で「使徒」訳される言葉は、ギリシア語の動詞、ἀποστέλλω から派生した言葉です。‘ἀποστέλλω’は「遣わす」、「派遣する」という意味です。そこから「遣わされた者」、「派遣された者」を意味する ‘ἀπόστολος’ という名詞が生まれました。

実は、イエス様ご自身も、ヘブライ人への手紙 (3:1) の中で、「神から遣わされた者」という意味で、ἀπόστολος と呼ばれています。しかし、新約聖書の中で、ἀπόστολος という言葉はほとんどの場合、「使徒たち」を指して用いられます。

では、使徒たちとは一体誰でしょうか。マタイ、マルコ、そしてルカ福音書は、イエスが宣教活動の初めに選んだ、12人の弟子の名を挙げています。そして彼らは「使徒たち」、ἀπόστολοιと呼ばれています。

この12人はイスラエルの12部族を象徴的に表しています。イスラエルの民は、度重なる異教徒の支配の中で、神ご自身が再び王としてイスラエルを治め、異教徒の支配から解放してくださる時を待望していました。イエス様は、宣教活動の初めに12人の弟子を選ぶことで、イスラエルの民の待望が、ご自分の働きを通して実現しようとしていることを示しています。

この「最初の十二使徒」は、ユダがイエス様を祭司長や律法学者たちに引き渡したことを後悔し、首を吊って自殺してしまった後、11人になってしまいます。イエス様の復活後、残された11人は、欠けてしまった一人を補うために、新たな「使徒」候補を二人立てます。「バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフ」とマティアです。この二人が、どのような基準に従って「使徒」候補として選ばれたのかが、使徒言行録1章21節、22節に記されています。そこにはこうあります。

「主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」(Ac 1:21 ‐22)

ここには、「使徒」となる者は、ヨハネの洗礼からイエス様が天に挙げられた日まで、つまりイエス様の地上における宣教活動の初めから終わりまで共にいて、復活の主を見た者でなくてはならいことが示されています。そしてクジによって、マティアがユダに代わる十二使徒の一人として選ばれました。

今日の第一朗読で読まれた使徒言行録9章1節から19節は、ファリサイ人サウロが使徒パウロとして生まれ変わる転換点です。

復活のキリストを信じる共同体がエルサレム、そしてパレスティナを超え、イスラエルという民族を超え、地中海世界全体に広がり、異邦人が教会のメンバーとして加えられるようになるのは、異邦人の使徒、パウロの働きによってです。約束の民、イスラエルの民に属さない私たちがクリスチャンになったのは、パウロがいたからです。教会の宣教の歴史におけるパウロの役割は、どんなに強調しても、し過ぎることはありません。

ところが、パウロが「使徒の一人である」ということは、教会の中ですんなりと受け入れられたわけではありません。パウロが使徒であることを認めない人々もいたようです。

パウロは、十二使徒のように、生前のイエス様によって直接選ばれたわけではありません。パウロは、「イエス様の地上における宣教活動の初めから終わりまで共にいて、復活の主を見た者」という使徒候補の基準を満たしてもいません。

彼はイエス様の弟子ですらありませんでした。恐らくパウロは、生前のイエス様を知らなかったはずです。さらに悪いことに、パウロは、教会の迫害者として知られていました。ところが、教会の迫害者にして、律法を行うことにおいては誰にも遅れをとることがないと自負するファリサイ人サウロが、世界中に福音の種を蒔く宣教者にして、異邦人の使徒とされました。

パウロを使徒としたのは、復活のキリストです。今朝の福音書朗読で、7人の弟子たちの前に現れ、食事の準備をしてくださったのも、同じ復活のイエス・キリストです。

しかしその「現れ方」は、大きく異なっています。福音書、そして使徒言行録に記されている復活のキリストの顕現は画一的ではなく、多様です。復活されたイエス様は、十字架で死なれたイエス様ですが、復活の主の体は、十字架にかけられたイエス様の体と同じではありません。

そこには連続性と断絶があります。復活の主の現れ方の多様性は、この断絶の側面に結びついています。この断絶の故に、パウロだけではなく、イエス様の生前からの弟子たちでさえ、自分たちの前に現れているのが、あの十字架の上で死なれたイエスであると直ぐには気づきません。

しかし、復活のキリストの多様な現れの中に、共通の核があります。それは、「十字架に架けられ、殺され、墓に葬られたあのナザレのイエスが、私たちの前に現れた」という認識です。これこそが福音と呼ばれるキリスト教信仰の核にあるものです。そして、私たちが聞く福音、私たちが知ることのできるイエス・キリストは、この使徒たちによって媒介された福音であり、使途たちによって媒介されたイエス・キリストです。

使徒たち無しにキリストはなく、使徒たち無しに教会はありません。彼らは教会の土台です。(Eph 2:19-22)

しかしそれは、使徒たちが「イエス・キリスト」を「完全に知っていた」ということを意味するわけではありません。そもそも、私たちは一人の人ですら、完全に知ることはできません。ましてや、神のひとり子であるイエス・キリストを、たとえ使徒たちであっても、完全に知ることはできません。

しかし、繰り返しになりますが、私たちは、使徒たちによって知られ、使徒たちによって宣べ伝えられたイエス・キリスト以外のキリストを知ることはできません。ここにも連続性と断絶があります。私たちは使徒たちを通して、より具体的には、使徒たちが宣べ伝えた福音を記録した「新約聖書」という書物を通して、イエス・キリストに「ついて」学び、知るよう

しかしイエス・キリストについての「知識」が、イエス・キリストとの出会いとなり、イエス・キリストが私たちの歩みを導く「知恵」となるのは、聖霊の働きによってです。

「知識」が「知恵」となる場、復活のキリストがご自分を現される場。それは主の名によって集められた者たちの日常の中です。共に食事をし、共に祈り、共にみ言葉を学ぶ交わりの中です。

共に集まる時、復活の主がご自分を現される。そのような交わりが、私たちの間で実現しますように。