
12 May 2019 Fourth Sunday of Easter
旧約聖書の外典、あるいはローマ・カトリック教会が第二正典と呼ぶ書物の中に、マカバイ記と呼ばれる書物があります。それは歴史書であり、戦記であり、英雄伝です。その中に、今朝の福音書朗読の冒頭にある「神殿奉献記念祭」の背景をなしている出来事が記されています。
紀元前4世紀後半、マケドニアの王、アレクサンダー大王は、ペルシア、エジプト、シリア、メソポタミア、バクトリア、現在のパキスタンとインドにまたがるパンジャブに至る、広大な領域を支配下に治めます。これによってオリエント世界のヘレニズム化、ギリシア化が進みます。
オリエントにおけるヘレニズム化の中心地となったのはアレクサンダー大王の名を持って呼ばれるエジプトの都市、アレクサンドリアです。アレクサンダー大王の死後、王の武将であったセレウコス一世によって、セレウコス朝シリアという強力な帝国が登場します。
紀元前175年にこのセレウコス朝シリアの王となったアンティオコス・エピファネスは、ユダヤの完全なるギリシア化を掲げ、エルサレムに進軍し、神殿を略奪します。アンティオコスは、ユダヤ人が安息日を守ること、生まれてきた男の子に割礼を施すこと、神殿で生贄を捧げることを禁じました。
さらに彼は、イスラエルの民のアイデンティティーの中核にある、ユダヤ教のすべての祭りを祝うことも禁じ、律法の書を火で焼きました。ユダヤのあらゆるところに、異教の祭壇が築かれ、エルサレム神殿では、異教の神々のために、律法の書が「汚れている」とみなすあらゆる動物が捧げられました。
アンティオコスは、ユダヤ人にも、自分の神々のために汚れた動物を捧げることを命じ、これに逆らう者は、殺されました。ユダヤ人にとって聖なる場所、神殿は、このように蹂躙され、汚されました。アンティオコス・エピファネスが、ユダヤ人というアイデンティティーを消し去ることを目指していたことは明白です。
そのような時に、イスラエルに英雄が現れます。祭司マタティアとその息子、ユダ・マカバイです。彼らはエルサレムから27キロほど離れたモデインという街に住んでいました。そこにアンティオコスの役人がやって来て、マタティアにこう要請します。
「あなたはこの町では有力な指導者であり、御子息や御兄弟の信望もあつい。率先して王の命令を果たしてもらいたい。これはすべての民族が実行しているもので、ユダの人々も、エルサレムに残留している者たちも行っているのだ。そうすれば、あなたや御子息たちは王の友人と認められ、金銀、その他多くの報奨を受ける栄誉にあずかるであろう。」(1 Maccabees 2:17-18)
マタティアはこの要請を拒否しますが、一人のユダヤ人が、王の命令に従って異教の祭壇で生贄を捧げようとしました。怒りに燃えたまたマタティアは、そのユダヤ人と王の役人を切り殺し、異教の祭壇を引き倒します。これを機にマタティアは、アンティオコスに対抗する軍事闘争を開始します。マタティアの死後は、彼の5人の息子の一人、ユダ・マカバイが反乱闘争を指揮します。
そして紀元前164年、ユダ・マカバイとその軍隊はエルサレムから異教徒を駆逐することに成功します。彼らは新しい祭司を選び、異教の神々に生贄をささげて汚された石の祭壇を引き倒し、新たに切り出した石で祭壇を築きました。燭台、香壇、その他すべての祭具類を新しくし、神殿を清め、律法の書に従って生贄を捧げ、再びエルサレム神殿を奉献しました。
「神殿奉献記念祭」の時に人々が思い起こすのは、異教徒によるエルサレム神殿の蹂躙、マタティアとユダ・マカバイを指揮官とする軍事闘争であり、彼らが祝うのは異教徒の駆逐と新たな神殿の奉献です。「神殿奉献記念祭」の背後には、異教徒による抑圧、英雄的軍事指導者による軍事闘争、そして解放という物語があるのです。
イエス様の時代、神殿で行われる主要な祭儀は、しばしば「終末論的」と形容される意味を帯びるようになりました。ユダヤ人たちは、イスラエルの民というアイデンティティーの核となる過去の出来事を、祭りとして祝いながら、今現在、自分たちを抑圧する異教徒から解放してくれるメシアが登場することを待望していたのです。
ここまで話を聞いた皆さんは、イエス様の弟子たちも含めて、ユダヤの民衆がどのような「救世主」を待ち望んでいたか、お分かりになるはずです。彼らが待ち望んでいた解放は、異教徒たちに報復し、彼らを亡き者とすることであり、解放の喜びとは、敵が蓄えた富を略奪することでした。
第一マカバイ記4章23節から25節は、マタティアとユダ・マカバイによってもたらされた「救い」の喜びを、このように表現しています。
23 そこでユダは陣営内の戦利品のところに引き返し、多量の金や銀、青や紫に染めた布のほか莫大な富を奪った。24 全軍は帰還の途上、賛歌をうたい天を賛美した。「ほむべきかな。その憐れみはとこしえに変わることはない。」25 こうして、この日イスラエルに大いなる救いがもたらされたのであった。(1 Maccabees 4:23-25)
救いと富を奪うことが密接に結び付けられています。しかし、イエス・キリストの十字架の死と復活によってもたらされた救いの喜びは、敵を殺し、敵の富を奪うことにあるのではありません。イエス様はまことの神殿として、父なる神と一つの方として世に降って来られました。このまことの神殿は、マカバイ時代のエルサレム神殿のように、異教徒によって冒涜され、苦しみを受けます。それを後押ししたのは、神殿当局者であり、ユダヤ教指導者たちでした。
イエス様がまことの神殿であるとすれば、神殿の守護者たち、ユダヤ教指導者たちは、神殿と結びついた自分たちの地位、名声、特権、経済的利益の全てを失います。さらに神がいないところに神がいると語る冒涜を犯し、神を求める人を、神から引き離すことさえしていることになります。
彼らは、神がエルサレム神殿にいないことを認めることはできませんでした。神殿を力の源泉とし、そこに「神がいる」と信じた人々は、神殿と共に滅ぶことになりました。
しかし、この世の神殿を守ろうとした者たちによって蹂躙され、苦しめられたまことの神殿、イエス・キリストは復活を通して、ご自分が朽ちることのない、まことの神殿であることを示されました。
だからこそヨハネ福音書は、「28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」と、確信を持って断言できるのです。
これはイエス様が父なる神とひとつでなければ、虚しい言葉です。もしイエス様が父なる神様と一つでないのなら、私たちは安全ではありません。しかしイエス様の手は、神ご自身の手です。イエス様の手が、父なる神ご自身の手であるが故に、何者も、イエス様の手から、私たちを奪うことはできないのです。
私たちの死すべき体が朽ちたとしても、死から甦られた主は、私たちを最も危険な狼から、永遠の死から守ってくださり、復活の体を与えてくださる。
これこそ、私たちが、まことの神殿、キリスト・イエスの内に見いだす解放であり、救いの喜びです。