復活節第6主日説教

26 May 2019 Sixth Sunday of Easter

Acts 14:8-18; Revelation 21:22 – 22:5; John 14:23-29

2019年4月10日は、天文学、あるいは天体物理学の歴史における大きな飛躍を記す日となりました。この日、世界初の、ブラック・ホールをとらえた写真が公表されたのです。これはSheperd S. DoelemanをリーダーとするEvent Horizon Telescopeという国際的プロジェクトの成果です。

このブラック・ホールは、太陽の65億倍のサイズで、太陽系全体を飲み込むほど巨大で、地球から5千5百万光年も離れた、乙女座銀河団のMessier 87の中心にあります。このブラックホールに到達するためには、光の速度で旅をしても5千5百万年かかるということです。

ブラック・ホールの存在については、アインシュタインが一般相対性理論の論文を発表して以降、過去100年に渡って、様々なかたちで予言され、多くの研究者はブラック・ホールが存在すると信じてきました。

しかし2017年の4月まで、ブラック・ホールそのものが「観察」されたことはありませんでした。これまでも多くのブラック・ホールの映像が存在しました。しかし、それらはすべてコンピュータによるシミュレーションに基づいて作成されたものでした。

ブラック・ホールはあらゆる物質、あらゆるエネルギーを飲み込んでしまいます。光さえもその巨大な重力から逃れることはできません。光が飲み込まれてしまうということは、ブラック・ホールは「見えない」ということです。

ところが逆説的なことに、ブラック・ホールそのものは見えないにもかかわらず、その周辺は、銀河の中でもっとも明るく輝きます。極小のエリアに、ありとあらゆるガス、物質、エネルギーが渦を巻いて吸い込まれるとき、ブラック・ホールの周辺は超高温になり、赤外線、そして微量のX線を放出します。

ブラック・ホールの周辺で生じる赤外線とX線の中で、運のいい連中は、ブラック・ホールの巨大な重力から逃れることに成功します。

4月10日に発表された、世界初のブラック・ホールの写真というのは、ブラック・ホールの周辺で生じて、ブラック・ホールの重力から逃れることに成功した赤外線とX線をとらえたものです。

このように言葉で説明すると、ブラック・ホールをとらえた写真の何がそれほどすごいのかと思われるかもしれません。しかしこれは、天体物理学の領域における革新的な出来事でした。

私たちの日常の経験から推測できるように、観察対象が遠ければ遠いほど、光が弱ければ弱いほど、それを見るためには、より大きな望遠鏡が必要になります。

地球から5千5百万光年も離れた銀河の中心からやってくる電波をとらえるためには、地球と同じ大きさのパラボラを備えた電波望遠鏡が必要です。

もちろん地球サイズのパラボラを備えた望遠鏡を作ることなど不可能ですから、5千5百万光年先のブラック・ホールの周辺で生じる電波をとらえることも不可能なはずです。

しかし、その不可能を可能にしたからこそ、ブラック・ホールを写した世界で最初の写真は、天体物理学の世界における、革新的研究成果と呼ぶに値するわけです。

Event Horizon Telescopeのプロジェクトは、世界の異なる地点に散在している、8つの電波望遠鏡を、地球サイズの仮装電波望遠鏡として利用する方法を考案しました。

まず、ハワイ、チリ、メキシコ、フランス、スペイン、南極、アメリカのアリゾナの8つの電波望遠鏡を原子時計(1億年に1秒の誤差)によって同期します。

そして、同じ時間に、M87の中心に向けられたこれらの8つの望遠鏡を通って入って来たデータを、ハードディスクに保存します。

Event Horizon Telescopeの成否の鍵を握っていたのは、MIT(マサチューセッツ工科大学)の博士課程の学生、Katie Boumanが組んだアルゴリズムです。

このアルゴリズムこそが、8つの地点で得られたデータをスーパーコンピュータで解析し、一つに結び合わせ、地球サイズの仮装電波望遠鏡として利用することを可能にしました。

ブラック・ホールを写真に捉えるという天文物理学者たちの夢を可能にしたのは、天文学とは全く畑違いの、情報科学の博士課程に在籍する学生だったわけです。

さて、私が長々と、世界初のブラック・ホールの写真がどのようにして可能になったのかをお話したのは、ブラック・ホールについて語ることと、神学が神について語ることとの間には、多くの共通点があるからです。

ブラック・ホールの存在は、目に見えません。神学の対象である神も、目に見えません。ブラック・ホールについて語るために、天文物理学者が用いる言語は、比喩的な言語です。

彼らがブラック・ホールと呼んでいるものは、実際には「黒い穴」ではありません。それは重力場であり、空間の歪み、あるいは捻(ねじ)れです。

聖書はすべて、神と神の業についての比喩的言語です。例えば、今日の第二朗読には、「都」、「神殿」、「小羊」、「太陽」、「門」といった言葉、さらには「命の木が年に12回実を結ぶ」、「額に神の名が記されている」といった表現が出て来ます。

黙示録はこうした言葉を用いて、神の再創造の業の完成を描こうとしているわけですが、いずれの言葉も、いずれの表現も、「文字通り」に受け取ることはできません。

これらを「文字通りに」理解したとするなら、再創造の完成について何も理解していないことになります。

イエス様が、「あなたがたのために場所を用意しに行く」というときの「場所」も、決して文字通りの意味に受け取ることはできません。

聖書は見えない神について語る比喩的言語です。信仰において成長するということは、聖書という神の比喩が、何を指し示し、何を意味しているのかを学ぶということでもあります。

ブラック・ホールの姿を写真に収めるというEvent Horizon Telescopeのプロジェクトは、異なる地点で集められたデータを、一つに集約するアルゴリズムによって可能になりました。神を知り、信仰について知ることを目指す神学の営みも、これに似ています。

聖書という書物は多声的です。それは図書館であって、一冊の書物ではありません。そこに収められている書物は、著者、著作年代、文学類型、描き出される神の姿のすべてにおいて異なっており、そこから「ひとりの神」のイメージを描くということが不可能に思えるほど多様であり、対立さえしています。

しかし、私たちが信じる「ひとりの神」は、聖霊の働きによって示される神のイメージです。MITの博士課程の学生によって組まれたアルゴリズムが、異なる地点で得られたデータを、ひとつのブラック・ホールの画像として写し出したように、聖霊は、聖書の中に描かれる多様で、互いに異なるデータを、イエス・キリストという、神のひとり子として結びます。

父と子が一つであるが故に、わたしたちは聖霊の働きによって、イエス・キリストについて知り、この方について思い起こし、愛なる一人の神を知るのです。

イエス様は弟子たちのもとから取り去られます。しかし彼らは見捨てられ、放置されるのではありません。

イエス様が約束された助言者、仲介者、慰め主が、父のもとからやって来ます。それは「イエスの名によって」遣わされる霊であり、弟子たちにすべてを教え、イエス様が語ったことを思い起こさせるのです。

願わくは、約束の聖霊が、御子イエス・キリストの姿を、私たちの前にいよいよ明らかに示してくださいますように。