
Seventh Sunday of Easter
使徒言行録16:16-34;黙示録22:12-14,16-17,20;ヨハネ17:20-26 (NIT)
5月30日、先週の木曜日は昇天日でした。私たちは毎主日の礼拝の中で、ニケア信条を通して、イエス・キリストは天に昇り、父なる神の右の座に座しておられると告白します。復活と昇天は、使徒たちの教会の中ですでに、重要な信仰箇条でした。
しかし、イエス様が天に昇られた「場面」について言及している聖書箇所は、新約聖書中2箇所しかありません。ルカ福音書24章50節から53節と、使徒言行録1章6節から11節です。
この二つの書物の著者は同じ人物、ルカですから、イエス様が天に挙げられる場面、昇天を直接描いているのは、ルカだけということになります。
ルカは、イエス・キリストを世界で最初の宇宙旅行者に仕立てあげることで、教会の信仰に箔を付けようとしたのではありません。彼は、イエス様が弟子たちの「目から見えなくなった」(Acts 1:9)事実を、視覚的に描写しているのです。
復活後、イエス様は復活の体をもって弟子たちの前に現れ、しばらくの間、彼らと共に過ごしました。しかし、ある時を境に、イエス様が復活の体をもって弟子たちの前に現れることはなくなりました。
使徒たちも、そして使徒たちの宣教を通して弟子となった者たちも、この世にあって、復活のイエス・キリストを見ることはできなくなったということです。
しかし、復活の体のキリストを見ることができなくなった後も、使徒たちの教会は、彼らの交わりの中心に、主がおられることを強く感じ、そして信じていました。
十字架の上で死に、墓に葬られたナザレのイエスは、復活し、今も生きておられ、天の王座からすべてを支配しておられる。「イエス・キリストの昇天」が表しているのは、この信仰です。
この信仰は、新約聖書のいたるところで表明されています。エフェソの信徒への手紙は、キリストの昇天を、このように表現しています。
20 神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、21 すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。22 神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。(Eph 1:20-22)
キリスト教の信仰から、復活だけではなく、昇天を切り離すことができないのは、復活の主は、今も生きて、まことの王として治めておられ、彼は終わりの時に再び来られると信じる信仰だからです。
しかし「キリストの昇天」は、その初めから、教会にとっての、大きな2つの挑戦として現れました。
キリストが、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置かれ、すべてのもがキリストの足もとに従わせられたのなら、すでに悪の力は討ち滅ぼされたはずです。
しかし、使徒たちの教会は迫害に直面していました。それは、キリストに逆らう勢力が、悪が、なおも力を行使している証拠です。この事実は、「すべてのもがキリストの足もとに従わせられ」、悪の力は滅ぼされたという信仰と衝突します。
さらに、使徒たちは皆、天に上げられたキリストが、「すぐに戻ってくる」と確信していました。パウロは、結婚し、子どもを育てるなどということは「この世の」事柄であり、ほとんど意味のないことだと思っていました。彼は、結婚している者たちは、二心の者たちだとさえ言っています(1Cor 7:34)。
パウロはさらにこう言います。「今危機が迫って」おり、「定められた時は迫って」いる。だから、「妻のある人はない人のように」、「世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです」(1Cor 7:26,29,31)。
もし明日にも主が再び来られ、この世は過ぎ去り、新しい天と地とが現れるのなら、「未来」のために何かをする必要も、意味もありません。
今朝の第二朗読で読まれた、黙示録22章の12節から20節の間でも、2度に渡って、「わたしはすぐに来る」と繰り返されています。
ところが使徒たちの確信に反して、キリストが天から「すぐに戻ってくる」ことはありませんでした。パウロばかりではなく、使徒たちの誰一人として、2千年経ってもイエス・キリストが戻ってこないなどとは、ゆめゆめ思っていなかったはずです。
そして、使徒たちの約2千年後に生きる私たちは、キリストによって滅ぼされたはずの悪の力が、今も働いていることを知っています。
先週、火曜日の早朝、カリタス学園の小学校に通う子どもたちと保護者が、通学バスを待つために並んでいたところ、51歳の男が両手に包丁を持って走り寄り、16人の子どもたちと2人の大人に次々と切りつけました。小学校6年生の女の子と外務省職員の39歳の男性が命を落としました。犯人の男も自分で首を切りつけ、病院に搬送されましたが数時間後に死亡しました。
すぐに来ると思ったキリストが、2千年近く経っても来られない。十字架によって討ち滅ぼされたはずの悪の力が今も働いている。この現実は、私たちの神理解に対する挑戦として現れ、信仰の再検証を迫ります。
それは、神を新たに理解し直す試みでもあります。「神を新たに理解し直す。」これは聖書に神の声を聞こうとする共同体、イスラエルの民と教会が、絶えず続けてきた営みです。
旧約聖書全体を見ると、イスラエルの人々の神理解が、どのように移り変わっていったかを見ることができます。
イスラエルの民の先祖たちは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神によって、奴隷の国エジプトから解放され、約束の地へと導き入れられました。
イスラエルの人々は、神が歴史の中で先祖たちに成された救いの業を、自分たちが置かれた時代の文脈の中で、不断に、新しく解釈し直すことで、過去と現在とを結びつけました。それは必然的に、新たに神を理解し直すことを意味しています。同じことが教会についても言えます。
教会は、イスラエルの先祖をエジプトから導き出された、その同じ神を信じています。しかし神に関する教会の理解は、イスラエルの人々の神理解と劇的に違います。教会は、イエス・キリストを通して成された救いの業というレンズを通して旧約聖書の全体をまったく新しく読み直し、そして、まったく新しい神理解に到達しました。
しかし、それは、使徒たちの教会が、神を完全に理解したということでも、神の計画を知り尽くしていたということでもありません。
天に昇られたイエス・キリストが、すぐに戻って来ることはなかった。この事実からだけでも、使徒たちが神の計画の全体を、完全に理解しているわけでは無かったことがわかります。
信仰は私たちに、出来合いの答えを与えてくれはしません。どの大学に行くべきか、どんな職業に就くべきか、誰と結婚すべきか、子どもどのように育てるべきか、聖書に書いてあるわけではありません。
イエス・キリストへの愛によって一つに結び合わされ、聖霊の導きの中で、神ご自身と神の計画とを理解し直すとき、教会は、キリストによって成就された救いの業を、現在に結びつけるのです。
願わくは、毎主日の礼拝の中で聖書を朗読し、説教を聞き、み言葉を学ぶことを通して、私たちの信仰が、私たちに進むべき方向を指し示す、生けるまことの知恵となりますように。