
ゼカリア 12.8-10, 13.1; ガラテア 3.23-29; ルカ 9.18-24
もう一月近く前のことになりますが、5月25日の土曜日に、上智大学の神学部創設60周年記念イベントというのがありました。実は私も、20世紀から21世紀への変わり目の頃、上智大学の神学部で学んでおりまして、ほぼ20年振りに、共に学んだ仲間たちと再会し、旧交を温める機会が与えられました。
私が入学したときは、百瀬文晃というイエズス会の神父さんが学部長で、彼が今回のイベントの記念講演者をつとめました。百瀬神父さんは60周年記念講演をこのように締めくくりました。「神学という営みの中心には、イエス・キリストへの愛があります。」
今朝の福音書朗読の中で、イエス様は弟子たちに問いかけ
「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
この問いは、答案用紙に答えを書いたら、問題を綺麗さっぱり忘れても構わない期末テストとは、訳が違います。
「わたしを何者だと言うのか」というイエス様の問いの前に立つとき、私たち一人一人は、「私にとってイエス・キリストは何者なのか」と問うことを迫られます。
「わたしを何者だと言うのか。」「私にとってイエス・キリストは何者なのか。」この二つの問い、あるいは表裏一体の一つの問いに対して、どう答えるのか。それを問い続け、探求し続ける歩みが、クリスチャンという生き方です。それは同時に、神学という営みでもあります。
ですから、「神学という営みの中心には、イエス・キリストへの愛がある」という百瀬神父さんの言葉は、実はすべてのクリスチャンに当てはまるのです。
キリストへの愛無しに、「わたしを何者だと言うのか」という主の問いに向き合い続けることはできず、「私にとってイエス・キリストは何者なのか」と問うこと無しに、クリスチャンという歩みはありません。イエス・キリストが「私」に向かって、「わたしを何者だと言うのか」と問いかけている。そう感じたなら、もはやその人にとって、「世間」がイエス・キリストについて、あるいはキリスト教について何を言っているかは、まったく問題にならなくなります。
群衆は、ナザレのイエスについて、「洗礼者ヨハネだ」、「エリヤだ」、いやいや、「昔の預言者が生き返った」のだと、思い思いに答えます。しかしイエス様は、弟子として歩もうとするすべての者から、同じ答えを求めます。それはペトロの答えであり、「神からのメシアです」という答えです。
ところが、「ナザレのイエスは、神からのメシアである」と答えることは、弟子としての歩みのスタートであって、ゴールではありません。ペテロを始めとする12弟子たちを筆頭に、そしてその他のすべての弟子たちも、ナザレのイエスが神からのメシアであるとはどう言う意味かわからないまま、弟子として歩み始めました。
ペトロを含め、イエス様の弟子たちが待ち望んでいたメシアは、エルサレムから異邦人を駆逐して神殿を清める戦士であり、軍事指導者であり、イスラエルにダビデ・ソロモン時代の栄光を回復する王でした。ところがイエス様は、自分がメシアであるということを誰にも話すなと弟子たちに強く命じた上で、このように宣言します。
「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」
弟子たちにとって、メシアが苦しみ、メシアが敵によって殺されるなどということは、理解することはおろか、想像することさえできませんでした。弟子たちは、イエス様がどんなメシアか知らないまま、イエス様と旅をしているのです。追い討ちをかけるように、イエス様は続けます。
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」
人が、この世の提供する手段によって自分を救おうとすれば、まことの命、永遠の命を失うことになる。イエス様はそう言うのです。
先週、金融庁の金融審議会市場ワーキング・グループがまとめた「高齢社会における資産形成・管理」という報告書を、麻生太郎副総理兼金融担当相が受け取りを拒否するという前代未聞の出来事が、ニュースを賑わせました。
この報告書は次のように試算しています。夫が65歳、妻が60歳以上で、年金の19万1880円を柱とする、月の収入が20万9198円の「平均的な無職の高齢夫婦」が、夫が95歳となるまで30年間生活するとします。そうすると、月々約5万円、30年間で約2000万円の資産を取り崩す必要がある。夫65歳で、妻が60歳以上の「平均的な無職の高齢夫婦」に19万1880円の年金があるという「想定」が、そもそも驚きです。どんなに大甘に見ても、この想定が通用するのは団塊の世代までで、私より後の世代にとっては、まったく有り得ない、絵に描いた餅です。
政府は、2004年の時点ですでに、支え手の減少に応じて、年金の給付額を自動的に抑制する決定をしています。年金の受け取り額が減り続けていくことは既定路線です。退職金も減額方向に向かっており、企業は非正規雇用を拡大し続け、内部留保を積み上げ続けています。非正規の雇用者が5年目以降に無期雇用への転換を求めることができることを定めた法律は、雇い止めに拍車をかけただけです。
そのような状況の中で、「自助努力」で、老後に備えて2000万円を蓄えよというアドバイスが非現実的でないなら、一体何が非現実的なのか、私にはわかりません。
イエス様が私たちに命じる、弟子としての生き方は、自助努力によって、自分だけの安心と安全を確保し、命を守ろうとする生き方と正反対です。
「わたしを何者だというのか」と問われる主は、苦しみから逃れる道ではなく、苦しみに満ち溢れる世界の中で、喜びと希望を持って生きる道へと、私たちを招きます。
イエス様の最初の弟子たちと同じように、私たちも、彼がどのようなメシアであるのか知らないまま、弟子として一歩を踏み出しました。私たちは主と共に歩むことを通して、キリストへの愛に動かされて「私にとってイエス・キリストは何者か」と問うことを通して、イエス様が「神のメシアである」ことの意味を学びます。
願わくは、主が約束された助け主なる聖霊が、イエス・キリストがどのようなメシアであるのか、私たちに教え、苦しみに満ちた世にあっても、喜びと希望に満ちて生きる者としてくださいますように。