聖霊降臨後第三主日 説教

30 Jun 2019

第一列王 19:15-16, 19-21; ガラテア 5:1, 13-25; ルカ 9:51-62

ルカ福音書は、イエス・キリストによる救いの業が、エルサレムで成就されることを、繰り返し繰り返し、読者に思い起こさせようとします。

「エルサレム」はマタイ福音書に12回、マルコ福音書に10回、ヨハネ福音書に12回登場します。ところがルカ福音書は、マタイ、マルコ、ヨハネを合わせたのとほぼ同じ回数、31回に渡って「エルサレム」に言及しています。このことからも、ルカは、イエス様の神の国の宣教が、エルサレムを目指し、そこで成就することを示そうとしていることがわかります。

今朝の福音書の記事の背後には、恐らく、第二列王記の1章と2章がモティーフとして隠れています。第二列王記の1章には、預言者エリヤとアハズヤという王が登場します。アハズヤは北イスラエルの王でしたが、第二列王記1章2節では「サマリアの王」と呼ばれています。彼の在位は紀元前853年から翌852年までのわずか1年でした。アハズヤは、宮廷の屋上の部屋の欄干から落ちて大怪我をします。彼は自分の怪我が治るかどうか託宣を求めるために、バアル・ゼブルという異教の神のもとに使いを送ります。しかしアハズヤの使いたちの前に預言者エリヤが立ちはだかり、こう宣言します。

「あなたたちはエクロンの神バアル・ゼブブに尋ねようとして出かけているが、イスラエルには神がいないとでも言うのか。4 それゆえ主はこう言われる。あなたは上った寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。」

エリヤの言葉を聞いた使いたちは、すごすごとアハズヤのもとに帰って行って、エリヤの語ったことを報告します。するとアハズヤは、エリヤを捕らえて自分のもとに連れて来させるために、今度は50人の部隊とその長を送ります。ところがエリヤは天からの火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼします。そしてエリヤの言葉の通り、アハズヤは怪我から回復することなく死を迎え、エリヤは天に挙げられます。天に上げられる時が近づき、エルサレムに向かうその旅の初めに、イエス様とその一行はサマリア人の村を通ります。この当時、ユダヤ人とサマリア人とは敵対し、いかなる交際もありませんでした。

サマリア人たちは、神に礼拝をささげるべき場所はゲリジム山であって、エルサレムではないと信じていました。他方、ユダヤ人たちは、神に礼拝をささげる場所はエルサレム神殿だと主張していました。サマリア人にとって、エルサレムとそこで礼拝をささげるユダヤ人たちは嫌悪の対象であり、ユダヤ人にとってはゲリジム山こそが真の礼拝の場だと主張するサマリア人は、嫌悪の対象でした。サマリア人の村は、イエス様とその一行がエルサレムを目指していること知ると、彼らの受け入れを拒否したのです。

サマリア人の態度に怒ったヤコブとヨハネは、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言い放ちます。彼らは、エリヤが敵を火で焼き滅ぼしたように、メシアであるイエス様も、自分に敵対する者を滅ぼしてくれると信じています。更に、自分達は、師匠に敵対する者たちを滅ぼすべきだと思っているのです。

しかしイエス様は、弟子たちを厳しく戒め、次の村へと進んで行きます。そこで弟子たちは、イエス様の弟子として歩むために払うコストがどれほど大きいかを学ぶことになります。

新しい村に入ると、そこに3人の弟子候補が登場します。ここでルカは、イエス・キリストの弟子として歩むことを、敵対的な環境の中で、人々に拒絶されるリーダーと共に旅をすることとして描きます。言葉を変えれば、イエス様の弟子として生きることは、人々から、特に社会の中で地位や名声や影響力のある人々から嫌われ、拒絶される師匠と共に旅をすることです。

このことは、イエス様ご自身がホームレスなのだという現実によって、さらに強調されます。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」私たちの主は、ホームレスなのです。

イエス・キリストの側につくという決断は、どの政治家を支持すれば利権のおこぼれに与れるかという、この世の政治における計算とは真逆の決断です。イエス・キリストの弟子としての歩みは、私たちが慣れ親しんで「当たり前」だと思っている生き方、「これまでの通りの生活」を揺さぶるようなコミットメントを要求します。それは安定や平穏な生活の対極にあります。

56節から62節に登場する3人の弟子候補に共通する要素は、家であり、家族であり、それに結びついた安全です。イエス様と共に旅をすることは、それらを失う危険を冒すということです。

「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」というイエス様の言葉は、当時のユダヤ人にとっては、決して受け入れられないものでした。ユダヤ人社会において、親の埋葬をふさわしく行うことは、「父と母を敬え」という律法に従うことであり、子どもが果たすべき最も重要な義務と見なされていました。

しかしイエス様は、子が親に対して果たすべきもっとも重要な義務すら脇に置いて、「神の国」を宣べ伝えよと命じます。イエス様は、自分が宣べ伝える神の国に反対する者、聞き入れない者を死んだ者と見なしています。そして弟子として歩もうと思う者には、「死んだ者」にかかずらっていないで、神の国を宣べ伝えよと命じます。

敵対する者たちを力でねじ伏せることもなく、自分の身を危険に晒し、迫害されても報復せず、敵が死にかけていれば助け、それによって善人にも悪人にも恵みを注がれる愛なる神を証しし、神の国を指し示す。それが弟子の使命であり、弟子が支払うべきコストです。

とどの詰まり、イエス様は、すべてを賭けて自分について来いと言っているわけです。私たちは、子どもたちに何度となく、「お菓子をあげると言われても、ついて行っちゃいけない。おもちゃを買ってあげると言って近づいてくる人に、絶対について行っちゃいけない」と言ってきました。なぜ、「お菓子をあげる」、「おもちゃを買ってあげる」という人について行ってはいけないのでしょうか?それは、相手が「与える」とチラつかせるものは、奪うための餌であり、罠だからです。

「与える」と約束するものをはるかに超えて「奪う」行為が世に満ち溢れています。だからこそ、嘘と本当を見分ける知恵が必要とされます。

では、「すべてを賭けて自分について来い」と呼びかけるイエス・キリストに、ついて行くという決断は、愚かな決断でしょうか、それとも賢い決断でしょうか?「すべてを賭ける」という決断が賢い決断であり得るのは、「賭けたものをはるかに超えるものが返ってくる」ときだけでしょう。

イエス・キリストは、「わたしたちが賭けた」命よりも豊かで、大きな命、神の国の命、永遠の命を与えると言います。すべてをイエス・キリストに賭けるなら、私たちが支払ったコストは、想像を絶する利子付きで返ってくる。それが福音の語る希望であり、イエス・キリストの復活は、この希望の根拠です。

イエス・キリストの呼びかけに対する応答。それは人間がこの世で経験しうる最大のギャンブルなのです。

人生を賭けた、一世一代の大博打へようこそ!