
イザヤ 66.10-16; ガラテア 6. 1-10, 14-18; ルカ 10.1-12, 16-20
今朝の福音書朗読は、イエス様がエルサレムに向かっていく決意を固められた後、自分に先立って、72人の弟子たちを遣わす場面です。
創世記の10章には、大洪水の後、ノアの息子たち、セム、ハム、ヤフェトから地上の民族が分かれ出たことを語る物語があります。ノアの子孫から出て来た地上の民族の数は、ヘブライ語聖書では70ですが、旧約聖書のギリシア語訳である七十人訳では72となっています。
旧約聖書のギリシア語訳は、ラテン語でSeptuagintaと呼ばれます。Septuagintaは「70」という意味です。この名称は、プトレマイオス2世が、72人のイスラエルの長老に依頼して、旧約聖書をギリシア語に翻訳させたという伝説から来ています。そして興味深いことに、ルカ福音書の10章1節と17節の弟子の数を「70」としている有力な写本がいくつもあります。どういうわけか、「70」と「72」との間には奇妙な親和性と言いましょうか、揺らぎがあります。
しかし、ルカ10章1節と17節の数字が「70」であれ、あるいは「72」であれ、ルカがここで語ろうとしていることの意味は変わりません。ルカは、使徒言行録というルカ福音書の続編の中で、イエス・キリストの福音が「地の果て」に至るまで宣べ伝えられる様子を描こうとしています。
神の国の到来を宣言し、神の国のしるしとして人々の病を癒すために、イエス様は72人の弟子を派遣した。そう語るとき、ルカは恐らく、ノアの子孫から地上のすべての民族が出たと語る創世記10章をモチーフとして用いながら、使徒言行録の中で起こる、すべての民族を対象とする福音宣教を予告しているのでしょう。それは同時に、イエス・キリストは、地上のすべての民のために、神が備えられた救いの道であることを示しているとも言えます。
しかし世界全体を対象とする宣教活動の前に、まず起こらなければならないことがあります。それは十字架の死と復活です。イエス様がエルサレムに向かって進んで行かれる、まさにその時に72人が遣わされます。弟子たちの宣教の旅は、イエス・キリストご自身が救いの業を成就する旅の中に位置付けられているのです。
イエス様がエルサレムに向かって歩みを進めるのと並行して、イエス様はより多くの人から拒絶され、より多くの人から敵意を向けられるようになります。師匠に向けられる敵意は、弟子たちにも向けられます。72人の弟子たちは、イエス様自身を示すのであり、彼らの働きは、イエス様ご自身の働きのいわば延長です。だからこそ彼らが告げ知らせるメッセージを受け入れる者は、イエス様自身が宣べ伝える神の国を受け入れることになるのであり、彼らのメッセージを拒むことは、イエス・キリストご自身を拒むことであり、神の国を退けることを意味するわけです。
神の国を地上にもたらし、神の国の王となられるイエス・キリストご自身が、人々から嫌われ、拒絶されるなら、この方を「主」であると宣言し、彼によって神の国は到来したと告げる弟子たちも、イエス様に向けられる敵意から自由であるはずがありません。だからこそ主は、弟子たちを送り出す時にこう警告します。
「3 行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。」
しかし、イエスを主と告白し、神の国の福音を宣べ伝える弟子たちが経験するのは、敵意と拒絶だけではありません。弟子たちは、「神の国にふさわしい者」たちからのhospitality、歓待をも味わいます。イエス様は72人を送り出す時、彼らにこうも言われました。
「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
弟子たちを受け入れる街が、村が、家が沢山ある。主はそうも言っておられるのです。弟子たちは自分たちを受け入れてくれるかもしれない家の人々のための贈り物はおろか、財布すら持って行きません。彼らが携えて行き、人々に差し出すものは、イエス・キリスト御名であり、彼が始められた神の国だけです。しかし、平和の福音を携え、平和の使者として何も持たずにやって来て、神の国の福音を宣言する者たちを、歓待する人々がいるのです。この人々こそが「平和の子」であり、「神の国にふさわしい者」たちです。
この国の宣教の歴史における悲劇の一つは、キリスト教が鉄砲と共に入って来たことです。
パウロが語る通り、福音を告げ知らせる弟子たちには、「主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決して」あってはなりません。私たちが為すべきことは、イエス・キリスト以外の何かをダシに使って、福音をこの世にとって魅力的なものとすることではありません。神は私たちが出て行くに先立って、「平和の子」、「神の国にふさわしい者」たちを沢山用意してくださっています。収穫は多いのです。
イエス様に遣わされて世に出て行く弟子たちの使命は、「平和の子」、「神の国にふさわしい者」たちを見出し、イエスの名を宣べ伝え、彼らを神の国の民とすることです。この人々は、「新しく創造された者」として「神のイスラエル」に加えられ、神の平和と憐れみを知る者とされます。そして、今度は、彼ら自身が、神の国を宣べ伝える者として遣わされて行きます。神の国の平和は、無償で、賜物として与えられるものであって、人が「獲得」することができるようなものではありません。そして、この無償の賜物としての平和は、弟子たちによる「神の国の宣教」を通してしか、人々に与えられません。他の道はないのです。
だからこそ、福音を委ねられた者にとって、もっとも緊急性の高いこと、もっとも重要なことは、「平和の子」、「神の国にふさわしい者」たちを探し出し、神の国を宣べ伝え、神の国のしるしを示し、その人々を「次の世代」の神の国の宣教者とすることなのです。
イエス様が、「途中でだれにも挨拶をするな」と言うのは、無礼に振る舞えと命じているわけではありません。イエス様は弟子たちに、「もたもたするな!使命を果たすことに集中しろ!」と言っているのです。もたもたせずに出て行くためには、綿密な計画を立てて、万全の装備で旅をするということは、最初から諦めなくてはなりません。
むしろ弟子たちは、神に信頼して、身軽に旅をすることを学ばなくてはなりません。主によって散らされ、遣わされて行くということは、主が委ねられた使命を成し遂げるために必要なものは、神が与えてくださると信じて行動することです。これは言葉にするのは極めて簡単ですが、実際に行動に移すには、恐れと向き合い、大きな勇気を必要ともします。しかし、ここにこそ、クリスチャンという歩みの、そして教会のすべての働きの鍵があります。
イエスの名を携えて出て行くとき、私たちは敵意と拒絶とに直面して悲しむこともあるでしょう。しかし、神様が備えてくださっている、「平和の子」、「神の国にふさわしい者」たちのもとに導かれ、その人々から歓待を受け、共に「神の国」の平和を分かち合う者とされたときに味わう喜びは、神の国の祝宴の前味と呼ぶに値する、すばらしいものです。
願わくは私たち一人一人が、主の御名を携えて出て行き、「平和の子」たちのもとに導かれ、豊かな収穫を喜び祝う者とされますように。