
14 July 2019 申命記 30.9-14; コロサイ 1.1-14; ルカ 10. 25-37
今朝の福音書朗読は、知る人ぞ知る、「良きサマリア人」のたとえ話です。恐らく、「良きサマリア人」のたとえ話は、「キリスト教倫理」について語るときに、二番目に最も引き合いに出される箇所です。ちなみに、キリスト教倫理に関する議論の中で、最も多く言及されるのはマタイ福音書5章から7章の「山上の説教」です。
「良きサマリア人」のことを英語で “Good Samaritan” と言います。英語圏ではこの表現そのものが、チャリティーやケアの意味で用いられることがしばしばありまして、“Good Samaritan” という名を冠する病院やチャリティーが無数に存在します。
有名な聖書の物語を読むときには、いわゆる解釈の難しい聖書箇所を読むときとは違う「警戒心」が必要とされます。最もよく知られた聖書の物語は、最も濫用される、もっとも危険な箇所でもあるからです。
Paul Ramseyという著名なキリスト教倫理学者は、The Just War(『正戦』)という著作の中で、良きサマリア人の物語で強盗に襲われた男が、そもそも強盗に襲われないで済むように、事前に強盗たちをやっつけておくことも「慈愛の業」だ、そう主張します。
Ramseyが一体何をやろうとしているのかと言いますと、彼は、アメリカ軍が果たす「世界の警察」としての役割は「慈愛の業」だと主張するための、神学的理論を提供しようとしているのです。残念なことに、理論が実践的知恵を曇らせ、歪めるということが、しばしば起こります。
例えば、皆さんが、英語でもドイツ語でもペルシア語でも、何か「外国語」を身に付けたいと思ったとします。しかし、もし、「外国語の勉強を始める前に、外国語を習得するための理論を学ぼう」と思ったら最後、学びたいと思った言葉を身につけることなく、人生を終えることが決定的になります。
そもそも、人間がなぜ言葉を学び、獲得できるのかを説明する理論は存在しません。「生成文法理論」で言語学の世界に革命をもたらしたNoam Chomskyでさえ、人がなぜ言語を獲得できるのかは謎だと、率直に認めます。
同じことが、あるいは似たようなことが、クリスチャンという歩みについても当てはまります。今朝の福音書朗読の中で、イエス様を試そうとしているのは、「律法の専門家」、「神の掟の理論家」です。律法の専門家とイエス様とのやり取りは、当初、型通りに、想定通りに進みます。しかし、律法の専門家が、型通りの正しい答えをして、「自分の正しさをひけらかそう」と思ったとき、イエス様は想定問答の枠を外れて、全く予想外の話を始めます。
「律法の専門家」は、「わたしの隣人はだれか」とイエス様に質問します。この時も彼は、イエス様から「想定通り」の答えが返ってくると期待していたはずです。
「あなたの隣人は、同胞のユダヤ人です」という答えです。イエス様がそう言ったら、「自分は同胞を愛しています」とまた想定通りに答え、それを聞いたイエス様が、「では、あなたは永遠の命をすでに受けています」と想定通りに言い、そこで話は終わる。そう思っていたはずです。
ところが話はそのように進みません。「一人の男が、エルサレムからエリコへ下る道で強盗に襲われた。」そう、イエス様は話し始めます。「エルサレムからエリコへ下って行く途中」と言われているのですから、襲われたのが同胞のユダヤ人であることがわかります。身ぐるみを剥がれ、半殺しで放置されたユダヤ人が倒れている、その道を、祭司が通りかかります。しかし彼は倒れている男を避けて、道の反対側を通り過ぎていってしまいます。
この祭司の行動の背後には、それを正当化する理論があります。神殿で仕える祭司が最も避けるべきことは、汚れることです。道端に半死の状態で倒れている男は、身ぐるみ剥がれ、顔も殴られて変形し、遠目からは、異邦人なのか、同胞のユダヤ人なのかわかりません。もし倒れている男が異邦人であったとすれば、その体に触れることは、自分が汚れることを意味します。
さらに、例え傷ついて倒れている男がユダヤ人であったとしても、もしすでに死んでいたとすれば、その体に触れることはできません。死体に触れれば、自分も汚れるからです。祭司は理論通り、リスクを避ける行為をしたのであり、理論に従えば、何も間違ったことはしていないわけです。
レビ族は祭司の家系ですから、レビ人の行動の背後にも、基本的には祭司と同じ理論があり、そして祭司と同じように、汚れるリスクを避けて、道の反対側を通り過ぎてゆきます。律法に関する理論に従えば、レビ人も正しく行動したことになります。
律法の専門家にとって、まったく予想できなかったことは、イエス様のたとえ話に「サマリア人」が登場したことです。
ユダヤ人にとって、「サマリア人」イコール律法に逆らって生きている者たちでした。律法に逆らって生きる者は神に逆らって生きる者であり、神に逆らって生きる者が「永遠の命」を受けることができるはずはありません。どうすれば「永遠の命」を受けることができるかを話しているときに、「サマリア人」が出てくる余地は無いのです。
ですから、イエス様が「サマリア人」を持ち出したことは、律法の専門家にとって、全く想定外の展開でした。その上、このサマリア人は、半殺しにされ、身包み剥がれたユダヤ人の方にやって来ます。彼は、倒れているのが敵であるユダヤ人だとわかっても、向き直ってその場を離れることはありませんでした。
このサマリア人は、傷ついたユダヤ人のもとに近寄り、同胞のユダヤ人が汚れることを恐れて近づきもしなかったこの男に触れ、傷口にぶどう酒を注いで消毒し、オリーブオイルを塗り、そして包帯で覆います。自分が乗っていたロバの上に、傷ついたユダヤ人を乗せ、宿屋まで連れて行きます。宿を離れるときには、当面必要と思われる追加のコスト、2デナリオンを宿屋の主人に渡し、さらに費用がかかったら、それも自分が帰りに払うと約束して、傷ついた敵、ユダヤ人の介抱を依頼します。
このサマリア人の行動の背後に、一体、いかなる理論があるでしょうか?恐らく何の理論もないでしょう。彼を突き動かしたのは、「憐れみの心」でした。「憐れみの心」を呼び起こしたのは、半殺しの状態に捨て置かれ、自分で自分をどうすることもできない、立ち上がることすらできない、「傷ついた者」の現実です。
お気づきになったでしょうか?イエス様は、「わたしの隣人は誰か?」という律法の専門家の質問には、結局答えていないのです。むしろイエス様は、「隣人になりなさい」と命じます。
私たちは、前もって「隣人」を定義する必要も、特定する必要もありません。隣人となる人は、私たちの前に現れます。出逢いは神からの賜物であって、誰も出逢いをコントロールすることはできません。それは、誰が「私」の隣人になるかを、「私」はコントロールできないということでもあります。
主が私たちに、傷ついた者を見つめ、悲劇を直視する勇気を与えてくださるなら、隣人となるべき人と出逢ったとき、私たちは憐れみの心に突き動かされるはずです。そのときこそ、私たちは、その人の「隣人」となることができます。
願わくは、主が私たちに、傷ついた者を見つめる勇気と憐れみの心を与え、私たちを、傷ついた者の隣人としてくださいますように。