
28th July 2019, 創世記 18.20-30; コロサイ 2.6-15; ルカ 11.1-13
今朝の福音書朗読に出てくる祈りは、主イエス・キリストが「このように言いなさい」と弟子たちに教えられた、いわゆる「主の祈り」です。しかし私たちが普段、聖餐式の中でささげている「主の祈り」と違うことにお気付きになったと思います。
これは単なる翻訳の問題ではありません。福音書の中には、二つの異なるバージョンの「主の祈り」があるのです。私たちが礼拝の中でささげている「主の祈り」は、マタイ福音書6章9節から13節に記された、マタイ版のものです。
2つの「主の祈り」の中心には「御国」、あるいは「神の国」があります。イエス様の宣教活動の中心は「神の国」でした。イエス様が行った数々の「力ある業」、「不思議な業」は、イエス様の働きによって「神の国」が到来していることの「しるし」でした。
日本語で「神の国」、あるいは「御国」と訳されるもとの言葉はギリシア語の βασιλεία です。βασιλεία は βασιλεύς 「王」が支配し、統治する国のことです。ですから通常、βασιλεία は「王国」と訳されます。
イエス様はご自分の働きを通して、神ご自身が王として統べ治めるときがやって来たと宣言し、そのしるしとして、さまざまな「力ある業」をなさいました。そして人々に、すでに始まった「神の支配」を、「神の統治」を受け入れ、神の民として生きるようにと招かれました。
私たちが、何を、どのように祈るかということの内に、私たちがどのように神を信じているかが現れます。「主の祈り」には、イエス様の弟子たちが「何を求め」、「どのように生きるべきか」が示されています。
「父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。」これが、イエス・キリストの弟子として生きる者が第一に求めるべきものとして示されています。
「主の祈り」は、その冒頭で、イエス様の弟子たちが求めるものは、この世が求めるもの、異邦人たちが求めるものとは違うのだということを教えています。
なぜクリスチャンは、この世が求めるもの、異邦人が求めるものを求めないで、「神の支配」を求めるのでしょうか?それは、イエス様がAbba、父と呼ぶ神は、愛を持って子どもを育む親のような神であり、必要なものを与えてくださる神であり、この神を私たちは信じているからです。必要なものが、必要とする人々の手に渡らないのは、自分の支配ために富を蓄え、人々から奪う者たちが、この世の支配者として君臨しているからです。
神の王国が到来するようにという祈りは、裁きを求める祈りでもあります。この世の支配者によって苦しめられる者たちにとって、裁きは喜びの知らせであり、解放です。裁きを恐れるのは、不正な支配にくみすることで私服を肥やす者たちだけです。必要なものを与え、養ってくださる親である神に向かって、「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。」そう祈ります。
奴隷の国、エジプトから逃れ、荒野を彷徨ったイスラエルの民は、天からのパン、マンナによって養われました。しかしマンナは蓄えておくことができませんでした。イスラエルの民は、神の恵によってのみ、その日その日を生き抜くことができました。
イエス様は、「杖も袋もパンも金も」持たせずに弟子たちを送り出しました。何も持たずに、ただ神の国の福音だけを携えて出て行くということそのものが、「必要は神が満たしてくださる」という、神への信頼を証しすることになります。
だからこそ、「神の王国を来らせたまえ」という祈りは、「今、ここで」、神の国の民として生きることと結びついているのです。その生き方を通して、神の国が到来したときの現実を先取りし、神の国とはどのようなものか世に示す。これが弟子たちに託されたミッションであり、教会の使命です。
神の国の民としての生き方は、「主の祈り」の中で、互いに罪を赦し合うこととして描かれています。この点は、マタイ版の「主の祈り」よりも、ルカ版の「主の祈り」に、より明確に現れています。
4節の、罪のゆるしを求める部分のギリシア語を直訳すると、このようになります。「私たちの罪をゆるしてください。私たち自身も、自分に借りのある者たち(負債のある者たち)を皆ゆるしますから。」
この祈りは、弟子たちの共同体、教会が、弱さ、欠け、不足のある者たちの集まりであることが前提となっています。誰一人充足してはおらず、誰もが助けを必要としている。時にはお金やモノを借りなければ生きていけず、借りたものを返せないこともある。そのような時には、借りを帳消しにします。そう祈っているのです。この祈りは、借りたものを踏み倒すための方便ではありません。むしろ「自分に負債のある者、借りのある者を免除します」という宣言です。
「その日」を生きるために助けを求め、恥を忍んで、他のメンバーに「パンをかしてください」と言わなければならない者が、その日の必要を満たされ、そして「借りたもの」が免除される。それは神に赦され、神の国に迎え入れられた者たちの生き方であり、世に「神の国」を示すことです。
しかし私たちは、「その日」に生きるために必要な糧があることは当たり前で、食物のために祈る必要をまったく感じない国に生きています。その豊かさの故に、私たちは「神に信頼する」ことがもっとも難しい人間に、神の国からもっとも遠い人間になりました。
なぜなら、日々の糧を与えてくださいと祈る必要のない私たちは、無限の「不安」に取り憑かれた人間だからです。「安心な老後のためには2千万あっても足りない。3千万だ。いや、4千万必要かもしれない。」
私たちは「足る」を知らない人間です。「足る」を知らないが故に不安に駆られ、自分のために蓄えることに躍起になります。
そのために、いわゆる先進国と言われる「豊かな国」の教会は、主が与えられたミッションからかけ離れた集団となりました。辛辣な言い方をすれば、教会は、その日の糧を求めて祈る必要はないけれども、不安に取り憑かれ、自分のために蓄える者たちの集まりに過ぎなくなったのです。
残念ながら、日本を含め、豊かな国の教会は、「神の国」を指し示す共同体としての、新たな在り方を見出せずにいます。
だからこそこの朝、私たちはこう祈りたいのです。「主よ、聖霊をお与えください。豊かな国に生きながら、不安に取り憑かれ、自分のために蓄えようと躍起になる貧しい私たちに、神の国の民として生きる新たな道を示し、その道に踏み出す勇気をお与えください。」