
11th Aug 2019
創世記 15:1-6; ヘブライ 11:1-3, 8-16; ルカ 12:32-40
私たちの人間としての生活は、「待つこと」の連続です。採用試験の結果を待ち、受験結果の発表を待ち、プロポーズの返事を待ち、友人の訪問を待ちます。病気の回復を待ち、悲しみが過ぎ去るのを待ち、苦しみが終わるのを待ち、辛く悲しい出来事の記憶が薄れていくのを待つときもあります。
人であれ、変化であれ、出来事であれ、私たちが待つことができるのは、待っている人が現れ、待っている変化が起こり、待っていることが起こると信じているからです。期待が叶うと信じているからです。来ると思っていた人が現れず、起こると思っていたことが起こらなかったとき、つまり、私たちの期待が裏切られたとき、期待は失望に、時には絶望に変わります。
「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」(Lk 12:32)
この言葉には、明らかに、この福音書の著者が所属していた教会の現実が反映しています。この教会は小さく、迫害に直面しています。共同体の信仰に根ざした期待が、疑念によって曇り始め、メンバーたちは恐れを感じています。これは聖書学者たちが「終末遅延」と呼んでいる、教会の危機です。
使徒たちの教会は、イエス様が到来を告げ知らせた神の国が、間も無く完全な形で現れる。そう信じていました。神の国の完全な現れ。それは教会の信仰の中心にある期待でした。
十字架にかかって墓に葬られたイエス様は、復活して弟子たちに姿を現しました。しかし間も無く、復活の主の出現は起こらなくなります。それでも使徒たちの教会は、キリストはすぐに帰って来て、この世に神の国を打ち立ててくださると信じていました。
ところが10年待っても、20年待っても、イエス・キリストは帰って来ないし、神の国の完成も起こりません。「終末遅延」に直面し、教会の信仰は疑いによって曇り、メンバーは恐れを感じずにはいられなくなりました。
そのような背景の中で、新約聖書に収められている手紙や福音書は書かれたのです。大雑把に言えば、新約聖書という書物は、失望し、疑いによって信仰が曇り始めた教会を鼓舞し、信仰に踏みとどまらせるために書かれたのです。復活の主が帰って来ず、神の国の完成が起こらないことが、1世紀の教会にとって問題となったのなら、21世紀の教会にとっては何をか言わんやです。
まず私たちは、次のことを率直に認めなくてはなりません。イエス・キリストの再臨と、神の国の完成について、21世紀の教会が、1世紀の教会と同じ理解に留まっていることはあり得ません。
キリスト教の信仰は、神の天地創造の業の完成の内に、人の救いをも位置付けています。そうである以上、現代の教会の信仰は、神の救いの業を、ビッグ・バンで始まった宇宙の歴史と切り離して語ることはできません。
1世紀のヘレニズム世界に生きた何人も、この宇宙が約137億年前に始まったことを知りません。もちろん、この宇宙が、あと1千億年、膨張を続けることも知りません。しかし、私たちに与えられた宇宙の歴史についての知識は、使徒たちの教会が想像すらできなかった、いくつもの巨大な挑戦を、現代の教会に突きつけることになりました。
例えば、私は、どのようにして神の国がこの世に完成され得るのか、皆さんに説明できません。なぜならこの世の歴史、この地球の生命の歴史は、宇宙全体の歴史が閉じるよりはるか前に、終わりを迎えるからです。
人類が、気候変動や、核の脅威をくぐり抜け、恐竜を絶滅させたよりもはるかに巨大な隕石の落下が、今後何億年も起こらず、生き延びることができたとします。それでも、約50億年後に、太陽が赤色巨星、 red giantとなるときには、地球上生命はすべて終わりを迎えます。地球は文字通り、死の星となります。すべての命が死に絶えたこの地に、神の国が現れると語ることは、まったくのナンセンスでしょう。
では、私は、神がイエス・キリストを通して世界を、そして人を救われると信じていないのでしょうか?そうではありません。私は今も、神が、イエス・キリストを通して天地創造の業を完成され、世界を、そして人類を救われると信じています。
しかし私たちの信仰の理解が、1世紀の教会と同じであるはずはありません。異なる時代の、異なる場所に置かれた教会は、神がイエス・キリストを通して成就された救いの御業を、常に、新たに理解しようとします。そうでなければ、信仰は過去の遺物として死んでしまうからです。信仰が生きた信仰であるためには、聖書に示された救いの出来事を、不断に再解釈する営みが絶対不可欠です。
信仰を新たに理解しようとしながら聖書を読むと、聖書が直接「語っていないこと」の中に、聖書が直接語っていること「以上」のことが隠されていることに気づかされます。言葉を変えれば、聖書を読むことを通して信仰を新たに理解しようとする時、その理解は聖書を超え出ていきます。
神も、神の天地創造の業も、そして神の救いの業も、聖書の中に綺麗に収まってはいないのです。これは理論物理学者や天体物理学者たちが、実際に観察されるわずかなデータから、巨大な宇宙全体の構造を読み取ろうとする作業にも似ています。
データは解読されなければ意味がありません。宇宙マイクロ波背景放射 (CMB: Cosmic Microwave Background [Radiation])も、赤方偏移 (redshift)も、観察される事象そのもの、データそのものが、宇宙の設計図だというわけではありません。
宇宙の構造として、宇宙進化の歴史として示されるのは、あくまでもデータの解釈です。しかし優れた解釈を導き出すための「法則」は、どこにも存在しません。もし、すべての人間が、データを同じように解釈できるなら、すべての人がアインシュタインになれます。しかし実際にはそんなことはありません。優れた解釈を可能にする洞察、あるいはひらめきは、聖霊の働きと同じで、それがどこから来て、どこに行くのか、誰も知りません。
私が今朝、皆さんにお伝えしたいことは、信仰の歩みは、不確定性を内包しているということです。
ヘブライ人への手紙は、アブラハムは行き先を知らぬまま、生まれ故郷を捨てて旅立ち、約束されたものを手に入れることもなく、「地上ではよそ者であり、仮住まいの者」であったと語ります。この言葉は、信仰の歩みが、「知らないこと」に囲まれながら、忍耐を持って旅を続け、神に信頼することを学ぶプロセスでもあることを、よく表しています。
私たちは、自分の置かれた時と場において、信仰を新たに理解しようと努力を続けます。その努力は、神について、世界について、神の救いの業について、自分がどれだけ「知らないか」に気づかせると同時に、神に信頼することは、自分の知識に信頼することではないことを教えてくれます。
願わくは、喜んで神の国を与えてくださる神が、21世紀に生きる私たちの内にも、信仰のともし火を燃え続けさせ、聖霊の働きによって、この時代にふさわしい、新たな信仰理解へと、私たちを導いてくださいますように。